女神の本音
朝の光が屋上に満ちていた。
海からの風が乾いた石の匂いを運んでくる——はずだが、アシュタルの鼻にはほとんど届かない。嗅覚の減退。帳面に記録済み。もう驚かない。
アナトは屋上の縁に立っていた。赤い髪が風に揺れ、朝日に透けて炎のように光っている。港の方角を見ている。何を見ているのだろう。海か。空か。それとも、この世界のどこかにいるはずの兄の影を探しているのか。振り返りもしない。だがアシュタルが階段を上がってきたことには気づいているだろう。神の耳は人間の足音を聞き逃さない。
「報告があります」
「聞こう」
短い返答。向き直りもしない。だがそれがアナトの「聞く姿勢」だった。背を向けたまま、耳だけをこちらに傾ける。最初の頃は不遜だと感じた。客に背中を見せる商人はいない。だが今は分かる。向き合うと感情が顔に出る——それを嫌っているのだ。戦争の女神は顔に出る感情を弱さだと思っている。だから背を向ける。それは彼女なりの礼儀だ。
帳面を開き、昨夜の出来事を報告した。淡々と。影の出現。モトの使いであること。提案の内容。条件。そしてアシュタルが「考えておく」と答えたこと。一つ一つ、帳面の記録を読み上げるように事実だけを並べた。
アナトの背中が微かに強張った。
「……モトが動いたか」
「はい。昨夜、直接来ました。使いを通して」
「早いな」
予想はしていた、という口ぶりだった。だが「この早さは」と呟いたのが聞こえた。想定より速い。モトの使いが捧げものの一族に接触してくることは織り込み済みだったが、もう少し先だと踏んでいたのだろう。
「モトが使いを送ったということは、捧げものを本気で欲しがっています。自分から動くほどに」
アナトが振り返った。金色の瞳がアシュタルを射抜く。切れ長の目が鋭くなっている。風が止んだわけではないのに、赤い髪が一瞬だけ静止したように見えた。
「それが、何だ」
「情報です。モトにとって捧げものの一族に価値がある。つまり、僕たちは交渉材料を持っている。モトの提案にも——検討の価値はあります。少なくとも、モトがなぜ捧げものを欲しがるのかを知れば——」
「黙れ」
空気が裂けた。
声ではなかった。声でもあったが、それ以上の何かだった。アナトの感情が物理的な力となって空間を震わせた。屋上の石壁に細い亀裂が走った。干していた洗濯物が吹き飛んだ。風が唸った。髪留めが弾け、赤い髪が解けて広がった。両腕の戦の紋様が一瞬だけ赤く光った。
アシュタルは動けなかった。
怒り——だがただの怒りではない。もっと深い、もっと古い、千年分の感情が一瞬で噴出したような。
「モトに渡すくらいなら——」
言いかけて、止まった。
口を噤んだ。歯を食いしばるのが見えた。金色の瞳が揺れている。怒りだけではない。その奥に、別の何かがある。痛みに似た何か。
長い沈黙が落ちた。
風だけが吹いていた。解けた赤い髪が風に舞い、アナトの表情を半ば隠している。その向こうに見える瞳は——初めて見る色をしていた。
アシュタルは黙って待った。
商人は待てる。交渉相手が感情を露わにした瞬間は、最も多くの情報が得られる。沈黙は武器だ。急かさない。問い詰めない。ただ、待つ。
アナトが息を整えた。
「……余計なことを言った。忘れろ」
背を向けた。声は平静に戻っていた。だがその平静が作り物であることは、商人の耳には丸聞こえだった。
忘れない。忘れられるはずがない。
「モトに渡すくらいなら——」。その先に続くはずだった言葉。アナトが飲み込んだ言葉。それが何なのか、アシュタルには分からなかった。だが分からないまま、記憶に刻んだ。帳面には書かない。書けない種類の情報だ。
代わりに、別のことを理解した。
この女神は——バアルを取引材料として探しているのではない。
契約の利害、神々の力関係、世界の均衡。そういった計算の外側に、もっと個人的な何かがある。千年以上の時間が積もった、言葉にならない感情。バアルを失ったことへの——あの神殿の壁に触れた指先。石のバアルの像を撫でたあの一瞬。あのときと同じものが、今の激昂の底にある。
それは商人にとって重要な情報だった。交渉相手の本音。隠された動機。それを知ることは、あらゆる取引の基礎だ。相手が何を恐れ、何を求めているかが分かれば、落としどころが見える。
同時に。
商人としてではない部分が、アナトの背中に何かを感じていた。それが何かは分からない。名前がつけられない。帳面に書けない。利益にも損失にもならない。だがそこにある。確かにある。
アナトの背中を見つめたまま、アシュタルは口を開いた。
「アナト」
「……何だ」
「一つ目の道を、最優先にします。バアルを探す」
アナトが振り返った。金色の瞳が、わずかに見開かれていた。
「ただし、他の道を完全に捨てるとは言いません。商人は仕入れ先を一つに絞らない。選択肢を減らさない。それだけは——譲れない」
アナトは何も言わなかった。背を向けもしなかった。ただ、小さく顎を引いた。それが肯定なのか、諦めなのか、あるいは別の何かなのかは分からなかった。
屋上で二人、しばらく黙って立っていた。
朝の風が吹いている。海の方角から、商船の帆が見えた。白い布が風を孕んで膨らんでいる。弟が夢見る海。父が商品を運んだ海。母が夫の帰りを待った海。
やがてアナトが階段を降りていった。足音が遠ざかる。軽い足音だ。神は体重がないのかもしれない。あるいは、大地を踏みしめる必要がないほど強いのかもしれない。
一人になった。
夜空を——いや、まだ朝だった。朝の空を見上げた。青い空に雲が少しだけ浮かんでいる。雨雲ではない。嵐の気配はない。バアルが不在の空は、どこまでも乾いている。
帳面を開いた。
モトからの提案。アナトの本音。バアルの行方。粘土板の欠片に残された「生と死の」何か。弟の十四日。自分の二十一日。
天秤の上に載る要素が増えすぎている。片方に乗せれば片方が浮く。全てを同時に量ることはできない。
だが——商人は、複雑な取引ほど燃える。変数が多いほど、他の商人が手を出さないほど、利鞘は大きくなる。父が言っていた。「誰もが尻込みする商談を持ち帰った者が、市場を制する」。恐怖と困難の向こうに、誰も見つけていない解がある。それを見つけるのが商人だ。ベン=シャハル商会の跡取りだ。
帳面を閉じた。
懐の中で、粘土板の欠片が硬い感触を伝えてくる。「捧げものは死への供物にあらず。生と死の——」。答えの続きは、まだ見つかっていない。だが探す方向は決まった。バアルを探す旅は、答えを探す旅でもある。
弟の船の模型を思い出した。帆のない船。帰ったら一緒に付けると約束した。約束を守るために、まず帰ってこなければならない。帰ってくるために、まず出発しなければならない。
「さて、どう値をつけようか」
呟いて、階段を降りた。
旅の準備を始めなければならない。




