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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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モトの影

 夜が、変わった。


 弟の部屋を出て廊下に立っていたとき、それは来た。前触れは空気の変質だった。湿度が消えた。港町の夜には海からの湿り気が必ずあるのに、それが一瞬で抜け落ちた。乾いた、冷たい空気。砂漠の夜ですらもう少し温かい。これは温度とは別の冷たさだ。存在そのものが冷えている。


 街の犬が黙った。


 遠くで吠えていた番犬の声が、一斉に止んだ。海鳥の鳴き声も消えた。風が止まった。波の音すら聞こえない。ウガルの夜は決して静かにならない港町だ。それがこの瞬間、完全な無音に包まれた。


 胸の印が疼いた。


 鈍い、しかし深い痛み。骨の奥に針を刺されるような。布の下で印が冷たく脈打っている。バアルの神殿に入ったときにも疼いたが、あのときとは質が違う。あれは呼応だった。これは——警告だ。


 何かが近づいている。


 アシュタルは家の外に出た。出るべきではなかったかもしれない。だが家の中にいれば、家族のそばに「それ」を引き寄せることになる。弟の部屋はすぐ隣だ。声のない寝息を立てて眠っている弟の隣に、この気配を近づけるわけにはいかない。本能的にそう判断した。


 路地に出た。


 月はあった。だが光が届いていなかった。月は空にあるのに、路地は闇に沈んでいる。影が——濃すぎる。壁の影、建物の影、自分の影。全てが普段より深く、濃く、まるで闇そのものが厚みを持っているように見えた。


 路地の奥に、それがいた。


 人型だった。だが人ではなかった。


 輪郭はある。頭があり、肩があり、腕がある。しかし顔がない。闇を纏った——いや、闇で編まれた存在。影絵のように平面的で、それでいて確かな質量を感じさせる。周囲の闇がその人型に吸い込まれ、集約されているようだった。


 影が口を開いた。


 口はないはずだが、声が聞こえた。耳ではなく、頭の奥に直接流れ込んでくる。低い、穏やかな声。


「捧げものの印を持つ者よ」


 背筋が凍った。


 声は丁寧だった。穏やかだった。脅しの気配はない。だがその穏やかさが逆に異質で、人間が発する声とは根本的に異なるものだと全身が叫んでいた。


「お前の苦しみを知っている」


 膝が震えた。認める。震えている。恐怖は正直だ。隠しても体は隠せない。だが——膝が震えても、口は動く。商人の口は、足よりも先に止まらない。


「……どなたですか」


 声が掠れていた。それでも問いの形にはなった。


「名は必要ないだろう。お前は知っている。印が教えているはずだ」


 知っていた。胸の印が冷たく脈打っている。バアルの神殿で温もりを帯びたのとは真逆の反応。これは嵐の神への呼応ではない。その対極——死の領域からの呼び声だ。


 モトの使い。死の神の代弁者。


 帳面に書いた三つの選択肢のうち、二番目が自分の足で歩いてきた。


「お前の一族は苦しんでいる。感覚を失い、やがて全てを奪われる。それを止める方法がある」


 影が一歩近づいた。距離は変わっていないはずなのに、存在が近くなった。空気の冷たさが増す。


「捧げものを、こちらで引き受けてやろう」


 取引の提案。恐怖の中でも、その本質は嗅ぎ取れた。影が持ちかけているのは商談だ。


「条件は」


 声が出た。自分でも驚くほど平坦な声だった。膝は震えている。手も震えている。だが口だけが、商人の口だけが、条件を訊いている。


「感覚を戻す。全てを、すぐに。お前の弟も、父も、一族の全員を」


 即効性。確実性。帳面の二番目の選択肢そのものだ。


「代わりに?」


「死後の魂をいただく。お前たちが天寿を全うした後——その魂は私のもとに来る。それだけだ。生きている間には何も変わらない」


 何も変わらない、と影は言った。生きている間は今まで通り。感覚は戻り、弟は声を取り戻し、父の手は温もりを感じる。代価の支払いは死後。今すぐ失うものは——ない。


 弟の顔が浮かんだ。声のない笑顔。帆のない船。あと十四日。この取引を受ければ、明日にでも弟の声が戻る。「兄ちゃん」と呼ぶ声が聞こえる。母が泣かなくて済む。父が母の手を温かいと感じられる。


 それだけのことだ。死後の魂を払えば。


 商人の目で分析した。


 条件だけを見れば、悪くない。むしろ合理的だ。即効性がある。確実性がある。代価は将来の支払い。商取引でも、後払いの条件は珍しくない。先に商品を受け取り、売上が立ってから支払う。手元資金のない商人はみなそうしている。


 だが——商人は知っている。後払いの取引ほど、隠れた利子が高い。支払いが先延ばしになればなるほど、最終的な総額は膨らむ。見えない利子。契約書の行間に隠された条件。それを読み飛ばした商人が何人破産したか。


「一つ、訊いてもいいですか」


「どうぞ」


「なぜ、あなた方がわざわざ来る。僕たちの捧げものに、どんな価値がある」


 影が止まった。


 一瞬の間。沈黙が路地を満たした。闇が少しだけ濃くなったように見えた。


「……賢い子だ」


 影の声に、微かな感情が混じった。面白がっているのか、苛立っているのか。判別できない。だが「賢い」と言ったその声には、本物の感心が含まれているように聞こえた。少なくとも、嘘の気配はなかった。商人の耳は嘘を聞き分ける。影の声にも、同じ技術が使えるかは分からないが。


「考えておけ。だが——あまり長くは待てないぞ。お前の弟の時間は、私でなくとも分かるだろう」


 弟の名前は出していない。だが影は知っている。弟のことを、一族のことを。監視されていたのか。あるいは、死の神には生者の「残り時間」が見えるのか。


 影は答えなかった。質問を無視したのではない。答えを保留したのだ。商人には分かる。答えたくない質問には、相手は沈黙で返す。


 影が薄れた。


 闇に溶けるように、輪郭が曖昧になり、路地の影と区別がつかなくなり——消えた。


 同時に、世界が戻った。犬が吠えた。波の音が聞こえた。風が路地を吹き抜けた。月の光が石畳に届いた。ウガルの夜が、元に戻った。


 アシュタルは壁に手をついた。


 息を整えた。冷や汗が額から顎に伝い、石畳に落ちた。手が震えている。膝も震えている。全身が「逃げろ」と叫んでいた。


 だが、頭は動いていた。


 帳面を取り出した。震える手で開き、今の会話を一字一句書き留めた。影の言葉。条件。そして——影が一瞬止まった瞬間。


 あの間。アシュタルが「なぜ来るのか」と問うたときの、あの一瞬の沈黙。


 モトの使いが自ら来た。つまり、モト側にとっても捧げものには価値がある。欲しいのだ。求めているのだ。ならば——捧げものは「代価」になりうる。こちらからも値段を付けられる商品だ。


 震える手で帳面を閉じた。


 恐怖は消えていない。消えるはずがない。だがその恐怖の裏側に、商人の嗅覚が嗅ぎ取ったものがある。


 危険の中の、取引の芽。


 帳面を懐にしまい、壁から背を離した。膝はまだ少し笑っているが、立てる。歩ける。商人は立てる限り市場に行く。


「……高くつきそうだな、この商売」


 誰にも聞こえない声で呟いて、家の中に戻った。弟の部屋の前を通るとき、足音を殺した。起こしたくなかった。まだ眠れるうちは、眠らせてやりたかった。


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