母の願い
母の後ろ姿が、台所にあった。
夕食の支度をしている。鍋に穀物を入れ、水を注ぎ、火にかける。いつもの手順。いつもの時間。いつもの光景。だがアシュタルの目には、その「いつも」が硝子のように脆く見えた。あと何回、この光景を見られるか。数えられるほどしか残っていない。
居間の入口に立ったまま、言葉を選んでいた。
商談なら、切り出し方を間違えない。相手が何を聞きたいか、何を聞きたくないかを読み、最も受け入れやすい順序で情報を並べる。だが相手が母だと——商人の技術が使えない。使いたくない。母に対して交渉術を使う自分を想像するだけで、胸の奥が軋む。
「アシュタル?」
母が振り返った。息子が入口に立っているのに気づいたらしい。
「……母さん。少し、話があります」
母の手が止まった。鍋から立ちのぼる湯気が、二人の間をゆらゆらと流れている。
居間の椅子に向かい合って座った。母の目を見た。穏やかで、少し疲れた目。父が触覚を失い始めてから、母の目の下の隈は日に日に深くなっている。それでも家を回し、食事を作り、父と弟の世話をしている。父の手を握り、温かいかと訊く。父は笑って頷くが、本当に温もりを感じているかは分からない。それでも母は毎朝握る。この人の強さは帳面には載らない。
「遠くへ行かなければならないかもしれません」
単刀直入に言った。飾る言葉を探す余裕がなかった。
母の顔が曇った。予感はあったのだろう。息子が毎日帳面を抱えて出歩き、見知らぬ女戦士と行動を共にし、深夜に帰宅するようになった。何かが起きている。母は聞かなかったが、気づいていた。
「弟の——ヤリムの印を治す手がかりがあります。ですが、この街にいるだけでは見つからない。もっと遠くへ、もっと深くへ行かないと」
全ては話せない。神のこと、契約のこと、捧げものの真実。話したところで信じてもらえるかどうか以前に、母にその重荷を背負わせたくなかった。
「お前まで行かないで」
母の声が震えた。
「お父さんは手の感覚がなくなってきている。ヤリムは声が出ない。お前だけが——お前だけがまだ普通に話せて、普通に動けて——」
普通に、と母は言った。だがアシュタルは普通ではなかった。味覚は消え、触覚は鈍り、嗅覚も怪しい。母の作る穀物粥の味が分からない。香辛料を多めに入れてくれていることには気づいている。息子が「美味しい」と言わなくなったことを、母は食事の問題だと思っているのだ。違う。母さんの料理は変わっていない。変わったのは僕のほうだ。それを言えなかった。
「お前まで遠くへ行ったら、私は一人になる」
母の目から涙がこぼれた。
堪えきれなかったのだろう。父が変わり始めてから、母はずっと堪えていた。アシュタルの前で泣いたのは初めてだ。隠さない涙。それは息子への信頼であり、同時に限界の告白でもあった。
アシュタルは何も言えなかった。
交渉術は使えない。論理も使えない。「行かなければ弟がああなる」と数字を見せることはできる。だが母に数字を突きつけて、何になる。母は分かっている。分かっていて、それでも息子に行かないでほしいのだ。
分かっている。分かっている。商人は天秤を使う。どちらが重いかを量る。だが今、天秤の両方の皿に家族が載っている。母の涙が片方に、弟の未来がもう片方に。どちらを選んでも、家族を傷つける。こんな天秤は、帳面にも載せたくない。
だが——何もしないわけにはいかない。何もしないことは、弟の未来を見殺しにすることだ。十四日。その数字が頭の中で点滅している。
立ち上がった。「少しだけ」と言い、廊下に出た。
弟の部屋の前で立ち止まった。
扉の隙間から中が見えた。ヤリムが床に座り、船の模型を作っていた。
木の小片を小刀で削り、船体の形を整えている。器用な手つきだ。昔から細かい作業が得意だった。船乗りになりたいと言い出したのは十の頃で、父は笑い、母は心配し、アシュタルは「船を買う金は僕が稼ぐ」と約束した。
ヤリムの手が止まった。何かを感じたのか、顔を上げた。扉の隙間からアシュタルの顔を見つけ、笑った。声のない笑顔。口は動いているのに音がない。その不自然さには、もう慣れた——いや、慣れてはいない。慣れたふりをしているだけだ。
部屋に入った。船の木屑の匂いがするはずだった。以前なら、ヤリムの部屋に入ると削りたての木の香りがした。今は何も感じない。自分の嗅覚がまた一段落ちたのか、それとも完全に消えたのか。帳面に記録する気にもなれなかった。
ヤリムが粘土板と尖筆を手に取った。筆談の用意。声を失ってから、これが弟の言葉だ。
尖筆が粘土の上を走る。
「兄ちゃん、どこか行くの?」
この子は鋭い。声がなくなっても、耳は生きている。居間の会話が聞こえていたのだろう。
嘘はつけなかった。弟には嘘がつけない。商談相手には平気で張り子の虎を見せるくせに、仕入れ先に在庫があるふりをするくせに、この十四歳の少年の前では嘘が喉に詰まる。弟の目が真っすぐすぎるのだ。疑うことを知らない目。商人には向いていないが、船乗りには向いているかもしれない。水平線の先を信じられる目だ。
「……遠くに」
ヤリムが尖筆を動かした。
「いつ帰る?」
三文字。簡潔で、まっすぐで、切実な問い。
帳面の数字が頭をよぎった。十四日。あと十四日で、この子の全ての感覚が消える。目の光も。手の器用さも。この笑顔も。
答えた。
「必ず帰る」
ヤリムが笑った。
声のない笑顔。だがその目には光があった。兄を信じる光。何の根拠もなく、ただ兄だから信じる。その無条件の信頼が、帳面のどんな数字よりも重かった。
部屋を出た。
廊下で立ち止まった。壁に手をついた。指先の感覚が鈍い。壁の凹凸が遠い。自分も蝕まれている。時間は自分にも容赦しない。
母が泣きながら眠ったのを確認してから、もう一度弟の部屋に行った。ヤリムはまだ船の模型を削っていた。アシュタルが入ると顔を上げ、完成した船体を見せた。小さな、しかし精巧な船。帆はまだない。
「帆は帰ってきたら付けるよ」
尖筆の文字がそう言っていた。
帰ってきたら。
その言葉を、胸の一番深いところにしまった。帳面には書かない。数字にはしない。これは商人の帳面には載らない種類の——約束だ。帳面の数字が全て赤字になっても、この約束だけは黒字で残る。
「ああ。帰ったら、一緒に付けよう。海に出るなら帆がなきゃ始まらないからな」
ヤリムが頷いた。
船の模型を棚に置き、布団に潜り込んだ。すぐに寝息が聞こえた——いや、聞こえなかった。声を失った弟の寝息は、聞こえない。だが胸が規則的に上下しているのが見えた。眠っている。まだ、眠ることはできる。
部屋を出て、扉を閉めた。
弟の笑顔が、瞼の裏に焼きついていた。
声のない笑顔。帆のない船。
必ず帰る。帆を付けに。
それだけが、今のアシュタルを動かす全てだった。




