時間の値段
帳面に数字を並べた。
弟ヤリム。発症からおよそ十日。喪失した感覚は三つ——味覚、睡眠、声。進行速度は三日に一つの割合。父タグム。同時期に発症。味覚の喪失に加え、触覚が鈍化している。二つ半。こちらは四日に一つの割合。個人差がある。年齢か、体格か、あるいは信仰の深さか。変数が多すぎて法則が読めない。
自分。味覚は完全に消えた。触覚はわずかに鈍い。指先で帳面の紙を撫でても、以前ほどの手触りを感じない。商人にとって触覚の鈍りは致命的だ。布の目を指で読み、穀物の乾き具合を掌で量り、粘土板の文字を指先で辿る。その全てが少しずつ遠くなっている。
数字を並べ、曲線を描いた。横軸に日数、縦軸に喪失した感覚の数。弟の線は急な右肩上がり。父の線はやや緩やか。自分の線はその中間。
計算した。
人間の感覚は五つある。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。弟は三つを失った。残りは二つ。進行速度が変わらないと仮定すれば——
弟が全感覚を喪失するまで——推定十四日。
自分が全感覚を喪失するまで——推定二十一日。
筆を置いた。数字は嘘をつかない。帳簿の赤字を見つめるときと同じ冷たさが胸にあった。仮定は楽観的だ。進行が加速する可能性もある。だが悲観的に計算しても意味はない。最善の見積もりと最悪の見積もりの幅を出し、その中間で動く。商人のやり方だ。
「出かけます」
朝食の支度をしている母の背中に声をかけた。母が振り返り、何か言いかけたが、アシュタルの顔を見て口を閉じた。母には分かるのだろう。息子が「商人の顔」をしているときは、引き止めても無駄だと。
旧市街に向かった。アナトが無言でついてくる。昨日の言い合いの続きをするつもりはないらしい。こちらもそのつもりはなかった。今は情報収集が先だ。
旧市街の路地は狭く、建物が密集している。港湾地区の整然とした街並みとは違い、ここは古い時代のウガルがそのまま残っている。石壁に苔が這い、排水溝の上に洗濯物が干されている。生活の匂いが濃い——はずだが、アシュタルの鼻には何も届かない。嗅覚も鈍っているのかもしれない。帳面に書き加えた。嗅覚、微減。
商人仲間から聞いた住所を頼りに、一軒の家を探した。印を持つ一族は自分たちだけではない。調査で三家族を確認している。そのうち最も症状が進行しているのが、旧市街の一家だった。
扉を叩くと、中年の女が出てきた。痩せて、目の下に深い隈がある。長いこと眠れていないのだろう。だが目は生きていた。諦めていない目だ。
「ベン=シャハル商会のアシュタルです。お話を伺いたい」
「商会の……ああ、タグムさんの息子さん」
父の名は旧市街にも通っている。商人の信用は、こういうときに効く。
「おじいさまに、お会いできますか」
女の顔が曇った。だが拒みはしなかった。家の中に通された。
奥の部屋に、老人がいた。
座っていた。背筋は伸びている。目は開いている。だが——何も見ていなかった。
アシュタルの足音にも、女の声にも、反応しない。瞬きはする。呼吸もしている。肌には血色があり、痩せてはいるが衰弱しているわけではない。ただ——そこにいるだけだった。器はあるが、中身が空になったような。
女が老人の肩に触れた。反応はない。手を握った。反応はない。名前を呼んだ。反応はない。
「三月前からこうなんです。最初は味が分からないと言って、それからだんだん——」
声が震えていた。
「今は何も感じないみたいで。痛みも。暑さも寒さも。声も聞こえない。目は開いているけれど、何も見えていない。お医者様は分からないと。呪術師は『神の印だ、手を出せない』と」
アシュタルは老人の前に膝をついた。
目を見た。老人の目は開いている。だがそこに光はなかった。瞳孔は正常だ。焦点が合っていない。外界からの情報を一切受け取っていない目。見えているのに見えない。聞こえているのに聞こえない。
これが——全感覚を失った状態。
「生ける死人」。
肉体は動く。心臓は打つ。血は巡る。だが感覚が全て消えている。外界との接続が切れた身体の中に、意識だけが閉じ込められている。あるいは意識すら残っているかどうか。外から確かめる術はない。暗闇の中で目を開けているようなものだ。音のない部屋で耳を澄ますようなものだ。いや——それよりもっと深い。暗闇を暗いと感じることすらできない。沈黙を静かだと思うことすらできない。世界との繋がりが全て断たれた場所。
「……いつもこうしてお世話を?」
「ええ。食事は口に運べば飲み込みます。体は動かせますから、手を引けば歩きます。でも——自分からは何もしません。何も」
女の声が途切れた。涙を堪えている。
「死んでいるわけじゃないんです。でも、生きているとも——」
言葉が途切れた。女は唇を噛み、俯いた。
アシュタルは帳面を閉じた。もう十分だった。これ以上この部屋にいれば、商人の冷静さが保てなくなる。
「ありがとうございました。お時間をいただいて」
「あの——あの子を、治す方法は……」
「探しています」
それだけ答えた。「見つかります」とは言えなかった。根拠のない希望を売る商人にはなりたくない。
家を出た。
路地に立ち、帳面を開いた。アナトが隣にいる。何も言わない。
「あれが——全感覚喪失の最終形ですか」
「そうだ。贄の力が身体の全ての感覚を食い尽くした。だが肉体は生きている。死なない。神に捧げられた器は、壊れない」
壊れない器。中身を全て抜き取られても、器だけは残る。納品先を失った商品が腐っても、梱包だけは朽ちない。悪い冗談だ。だがこの冗談を、弟が笑えなくなる日が来る。十四日後に。
帳面に目を落とした。弟の名前の横に書いた数字。十四日。
十四日後に、弟がああなる。
船の模型を作る手が止まる。海に出たいと夢見る目が曇る。筆談の文字を書く指が、何も感じなくなる。
筆を持つ手が、少しだけ震えた。
一度だけだ。一度だけ震えて、止まった。
帳面に書いた。
期限——弟の全感覚喪失まで推定十四日。自分は推定二十一日。行動開始は、今すぐ。
数字で現実を区切った。数字にすれば、少なくとも「やるべきこと」が見える。恐怖には値段がつけられないが、時間には値段がつく。十四日という時間。その中で何ができるか。
帳面を閉じ、空を見上げた。
乾いた青空だった。雲一つない。雨が降らない空。嵐の神がいない空。
十四日。三週間。
商人は期限のある取引に慣れている。納期が迫れば手段を選ばず、最善の仕入れ先を探す。夜を徹して帳面を叩き、港を走り回り、あらゆる伝手を使う。
だがこの取引の「損失」は、金ではない。弟の人生だ。
歩き始めた。
「どこへ行く」
アナトの声が背中に届いた。
「家に帰ります。母に——話をしなければ」
アナトは何も言わなかった。ただ、隣を歩いた。いつもの半歩前ではなく、同じ歩幅で。それが何を意味するのか、アシュタルには分からなかった。だが少なくとも、一人で歩いているわけではないことだけは確かだった。




