三つの道
夜明けの光が帳面の上に落ちていた。
一睡もしていない。屋上から部屋に戻り、卓の上に帳面を広げ、一晩かけて整理した。蝋燭を三本使い切った。指先が炭で黒く汚れている。窓の外が白み始めたのは、三本目の蝋燭が燃え尽きる少し前だった。だが頭は冴えていた。眠気は途中で諦めて帰ったらしい。商人は帳面と向き合う夜が長いほど、頭が回る生き物だ。父がそう言っていた。
帳面の見開きに、三つの選択肢が並んでいる。
商人が仕入れ先を比較するときの書式だ。左列に選択肢、中列に利点と危険、右列に実現の見込み。父に教わったやり方をそのまま使っている。扱う商品が一族の命に変わっただけで、構造は同じだった。
一つ目。バアルを見つけて、捧げものを「受け取らせる」。
納品先の復旧。根本的な解決策だ。バアルが戻れば、行き場を失った贄の力は本来の循環に戻る。一族の感覚は回復する——はずだ。利点の欄に「根本解決」と書いた。問題は、バアルの所在が分からないこと。冥界にいるのか、それとも別の場所か。アナトでさえ掴めていない。危険の欄には「所在不明、探索期間不定」。時間がかかる。弟に、その時間があるか。実現の見込みは未知数。在庫の所在が分からない商品を仕入れるようなものだ。見つかれば全てが解決する。見つからなければ、何も始まらない。
二つ目。モトに捧げものを移譲する。
新しい納品先。昨夜の影の提案がこれにあたる。感覚の回復は即効性がある、と影は言った。代価は死後の魂。今すぐ失うものはない。確実性は高い。だが一族はモトの支配下に入る。死の神への隷属。生きている間は何も変わらないように見えて、死んだ瞬間に全てを持っていかれる。それを「取引」と呼べるかどうか。
三つ目。印そのものを消す方法を探す。
契約の破棄。最も理想的だが、最も不確実。印を消す方法が存在するかどうかすら分からない。粘土板の残りの文言——「生と死の」何なのか。その答えが鍵かもしれない。しかし欠片は持ち去られている。探すあてがない。利点の欄に「完全な解放」、危険の欄に「方法不明」。実現の見込みは——正直に書けば、限りなく低い。存在するかどうかも分からない商品に手付金を払う商人はいない。
帳面の右列に、それぞれ記号を振った。実現の見込み。一つ目は三角、二つ目は丸、三つ目は罰。三角は「条件つきで可能」、丸は「実行可能だが代価が重い」、罰は「現時点で見込みなし」。
商品の評価と同じだ。利益率だけ見れば二つ目が最も堅い。だが堅い取引ほど裏がある。見えている条件が全てだと信じる商人は、すぐに店を畳むことになる。モトが自ら使いをよこした。その時点で、この取引には見えない原価がある。
帳面を卓の上に置き、窓の外を見た。ウガルの街が朝日に照らされ始めている。屋根の向こうに港の帆柱が並んでいる。父がこの窓から港を眺めるのが好きだった。「あの帆柱の数だけ商機がある」と言っていた。今、父の目にあの帆柱は見えているだろうか。
帳面を閉じかけたとき、背後に気配を感じた。
「見せろ」
アナトだった。屋上から降りてきたらしい。朝日を背に、赤い髪が燃えるように光っている。断る理由はない。帳面を差し出した。
アナトが目を通す。金色の瞳が左から右へ動き、三つの選択肢を読み取る。表情が硬くなったのは二つ目を読んだときだった。
「モトに移譲する、だと」
「選択肢の一つです。検討の俎上に載せただけで——」
「論外だ」
声が低い。怒りというより、拒絶だった。鋼の扉を閉めるような、議論を許さない響き。
「バアルを見つけろ。それがお前との契約だ」
「契約の内容は『バアル探索への協力』です。他の選択肢を検討することを禁じる条項はありません」
仮契約の文言。あの夜にアシュタルが文書化を求めた契約だ。あのとき一字一句を詰めておいたのは、こういう場面のためだ。アナトは書面化を無意味だと言った。「神の言葉は石より重い」と。だが人間の世界では、石より重い言葉も紙の上に載せる。載せなければ、重さは証明できない。契約書は武器になる。商人なら知っている。
アナトの目が細くなった。
「……契約の文言を盾にするか。人間」
呼び方が戻った。「人間」。苛立っているときの呼び方だ。だがアシュタルは退かなかった。
「あなたの目的はバアルの救出です。僕の目的は一族の救済です。重なっている部分は大きい。でも——完全には、重なっていない」
言葉にしてしまえば、単純な構図だった。アナトにとって最優先はバアル。千年以上探し続けた兄。世界の均衡を取り戻す鍵。彼女の全てはそこに向かっている。一方、アシュタルにとって最優先は弟であり、父であり、母であり、一族だ。バアルを見つけることが一族の救済に繋がるなら、喜んで協力する。だが、もし他にもっと確実な道があるなら——商人はそちらも検討する。家族を守るために。それ以上でもそれ以下でもない。
沈黙が落ちた。朝の光が部屋に差し込み、帳面の上の文字を照らしている。三つの選択肢が、光の中でくっきりと浮かんでいた。
「……お前は、モトの取引を受ける気か」
低い声だった。怒りの底に、別の何かが混じっている。それが何かは、アシュタルには読み取れなかった。
「今は情報を集めている段階です。選ぶのはまだ先だ」
この答えが正しいことは分かっていた。商人として正しい。判断に必要な材料が揃うまで、決断を保留する。当然のことだ。
だがアナトの苛立ちが、わずかに増したのが分かった。
彼女は「保留」が嫌いなのだ。戦の女神は剣を抜くか抜かないかで世界を分ける。灰色の領域に留まることを、本能的に受け入れられない。白か黒か。敵か味方か。戦場ではそれが正しい。だが市場では違う。商人は灰色の中を泳ぐ。どちらとも決めないことが、最善の判断であることもある。
アナトが踵を返した。
「好きにしろ。だがモトに魂を売るなら——その前に、私がお前を止める」
それは脅しだった。戦争の女神の脅しだ。嵐をもたらす嵐神の妹であり、膝まで血に浸かって敵を屠る女神の言葉だ。本来なら、震え上がるべき台詞だった。
だがアシュタルは、別のことを聞き取っていた。「止める」と言った。「殺す」ではなく。「止める」。それは——契約を破棄する宣言ではなかった。まだ、繋がりを断つつもりはない。
背中を向けたまま、屋上への階段を上がっていった。赤い髪が朝日の中に消える。階段を踏む足音が、いつもより少しだけ強かった。
一人になった。
帳面を開き直す。三つの選択肢。どれが正しいかは分からない。分からないが、一つだけ確かなことがある。
時間は有限だ。
帳面の余白に、新しい項目を書き加えた。
——残り時間の計算。弟の感覚喪失の進行速度。自分の進行速度。まず、そこから始める。
筆を走らせた。数字で現実を区切る。数字にすれば、少なくとも次に何をすべきかが見える。感情は帳面の裏に。表には数字だけを。
「さて」
呟いた。
「時間に値段をつけよう」




