捧げものの意味
前話から続く夜の対話。
アシュタルは帳面を広げ直した。前の頁に書き連ねた情報を指でなぞり、整理する。古い血。途切れない信仰。血に刻まれた繋がり。バアル不在による循環の停滞。行き場のない贄の力が一族を蝕んでいる。
ここまでは分かった。だが、核心がまだ欠けている。
「『捧げもの』の完全な意味を教えてください」
アナトが視線を向けた。
「仮契約の条件に基づいて、と申し上げたはずです。情報の対価は払っている。あなたが知っていることは、開示する義務がある」
「……小賢しい」
「商人ですから」
アナトは少し間を置いた。夜風が赤い髪を揺らし、金色の瞳が月を映している。何かを計っているようだった。どこまで話すか。何を伏せるか。
やがて、口を開いた。
「『捧げもの』は——呪いではない」
筆が止まった。
「文字通りの意味だ。『神に捧げられた者』の印。何世代もの信仰が血に刻まれた結果、一族は——」
一拍の間。
「——神の器になった」
器。
アシュタルは筆を動かさないまま、その一言を噛み締めた。
「神力を受け入れ、循環させるための器。バアルが在った頃、お前たちの一族は知らずにそれを担っていた。信仰を通じて力を捧げ、バアルがそれを受け取り、豊穣として還す。一族の身体はその循環の一部——中継点のようなものだった」
「知らずに」
「知らずに。人間の側に自覚はなかった。信仰の行為そのものが力の循環を維持していた。祈りが力を送り、祭りが力を受け取る。意識せずとも、回っていた」
帳面に書いた。「神の器」。「力の中継点」。「無自覚の循環」。
「バアルが不在になり、循環が止まった。器に力が流れ込み続けるが、受け取る者がいない。行き場のない贄の力が、器の内側を——」
「食い潰している」
「そうだ」
アシュタルは筆を置いた。
数秒、何も言わなかった。帳面の上の文字を見つめ、情報を頭の中で組み替えた。商人が複雑な取引の条件を整理するように、一つずつ積み上げる。
「つまり——」
口を開いた。声は静かだった。
「僕たちは『納品先が倒産した商品』のようなものだ」
アナトの眉が動いた。
「商品は倉庫に残っている。腐り始めている。納品先——バアルがいないから。商品を救う方法は二つ。納品先を見つけるか、契約を破棄するか。バアルを見つけて循環を再開させるか、印そのものを解除して一族を器でなくすか」
「……人間は、何でも商いに例えるのだな」
「二度目ですよ、その台詞」
「二度言う価値がある」
だが、否定はしなかった。唇の端が、わずかに——本当にわずかに動いた。呆れの中に、別の何かが混じっている。的確だ、と認めているのかもしれない。この女神は言葉で認めない代わりに、否定しないという形で認める。
アシュタルは帳面を見つめた。
整理は終わった。
呪いの正体が分かった。正体が分かれば、対処が見える。商人は問題の輪郭が見えた瞬間から動き出す。
だが——
理解と怒りが、胸の中で混在していた。
自分たちは生まれながらに「神の荷物」だった。知らされもせず、同意もなく。祖父の代も、曾祖父の代も、その前も。何世代にもわたって、知らないまま神の力の循環装置にされていた。信仰だと思っていたものは、実際には——労働だった。対価を知らされない労働。
怒りが熱い塊になって胸を突き上げかけた。
帳面を閉じた。
怒りは帳簿の裏に挟む。今は対処が先だ。感情に浸っている時間は、弟にはない。ヤリムの感覚が日に日に薄れていく。触覚が消え、嗅覚が消え、やがて——全てが消える。その前に、手を打たなければならない。
商人は感情の決済を後回しにできる。帳簿上は「未払い」のまま棚に上げ、期日が来るまで触れない。それが強さだと、父に教わった。
けれど——後回しにした感情は利息がつく。いつか必ず、元金より大きくなって返ってくる。それも父の教えだった。
「方法は三つある」
静かに言った。
帳面の新しい頁を開いた。
「一つ。バアルを見つけて循環を再開させる。これが最も確実だが、最も困難。冥界にいるバアルをどうやって連れ戻すか」
筆を走らせた。
「二つ。別の神に『受取人』になってもらう。バアル以外の神が力を受け取れば、循環は再開する——かもしれない。ただし、一族の血に刻まれた繋がりがバアル固有のものなら、他の神では代替できない可能性がある」
アナトの表情が動いた。かすかに、だが確かに。この選択肢に何か思うところがあるのだろう。
「三つ。印そのものを解除する。器としての機能を停止させれば、贄の力の蓄積も止まる。ただし、これは一族とバアルの繋がりを完全に断つことを意味する。何世代もの信仰を——」
筆が止まった。
「——捨てることになる」
三つの選択肢を書き終え、帳面を膝の上に置いた。
どれも一筋縄ではいかない。だが、道が見えた。暗闇の中で手探りだった状態から、三つの方角に道があると分かった。それだけで、商人には十分だった。方角が分かれば歩ける。歩けるなら、着く。
アナトは黙って聞いていた。口を挟まなかった。それは珍しいことだった。この女神は、人間の話を最後まで聞くことを滅多にしない。
「一が最善だ」
ようやく口を開いた。
「当然ですね」
「バアルを取り戻す。それが全てを解決する」
「ええ。——ただし」
帳面の余白に、小さく書き足した。
「どの道を選ぶにしても、情報がまだ足りない。印を誰が設計したのか。バアルがなぜ冥界に留まっているのか。粘土板の欠けた文言は何なのか。三つの問いに答えが出なければ、三つの道のどれを選んでも手探りになる」
「ならば調べろ」
「はい」
帳面を閉じた。
暗闘の中で、筆先が粘土板を走る音だけが聞こえていた——のは、ついさっきまでのこと。今は筆を置き、夜空を見上げている。星が無数に散らばる空。その一つ一つが、答えの欠片のように見えた。
懐の中で、神殿から持ち帰った粘土板の欠片が、布越しに固い感触を伝えてくる。
「捧げものは死への供物にあらず。生と死の——」
空白の先に、何がある。
答えはまだ見えない。だが、問いの形は見えた。問いの形が見えれば、商人は動ける。
帳面を懐にしまい、立ち上がった。明日からまた歩く。聞く。書く。繋ぐ。商人にできるのは、それだけだ。
それだけで、十分だ。




