古い血
星明かりの下で、アナトが語り始めた。
屋上の夜は静かだった。港の方角から波の音がかすかに届くほかは、虫の声すらない。乾いた風が砂を運び、アシュタルの帳面の頁をめくろうとする。指で押さえた。
「前話の続きを聞いても?」
「……いいだろう」
アナトは屋上の縁に腰を下ろしていた。長い脚を投げ出し、背を壁に預けている。珍しい姿勢だった。普段は常に臨戦態勢で、壁に背を預けるなどしない。今夜は、少し違う。自分から話そうとしている。
アシュタルは帳面を膝の上に構えた。
アナトが一瞥した。
「……書くのか」
「商人ですから」
「ふん」
鼻で笑ったが、制止はしなかった。
「印が出る一族は——かつてバアルに豊穣を祈願した家系だ」
筆が走った。
「何世代も前から、ウガルの古い家はバアル神殿を通じて捧げものをしてきた。穀物の初穂。漁の初獲り。商いの利益の一部。それらを神殿に納め、見返りに豊穣と安全を得た」
「それは信仰ですよね。神殿への奉納は、どの家でもやっている」
「そうだ。だが——古い家は、それを『途切れなく』続けた。三代、五代、十代。一度も欠かさず。旱魃の年も、疫病の年も、戦の年も。途切れなく捧げ続けた家と、途切れた家がある。印が出るのは、途切れなかった家だ」
帳面に書き込む手が止まった。
「……つまり、僕たちの祖先は神と商取引をしていた」
アナトの眉が動いた。
「商取引、とは」
「捧げものを納め、見返りに豊穣を得る。継続的な取引関係です。単発の買い物じゃない。何世代にもわたる長期契約。商人の世界なら、これは『得意先』と呼びます」
「……人間は、何でも商いに例えるのだな」
「例えているんじゃなくて、構造が同じなんです」
アナトは否定しなかった。
少し間を置いて、続けた。
「信仰は——心だけのものではない」
声が低くなった。
「繰り返される祈りと奉納は、何世代もかけて一族の血筋にバアルとの繋がりを刻む。心が血に沁みる、と言えば分かるか。百年、二百年と途切れなく続いた信仰は、やがて血そのものに根を下ろす」
「血に刻まれる」
「そうだ。印は、その繋がりの——可視化だ」
可視化。商人の帳簿に記された数字のようなものか。目に見えない信用が、数字として帳面に現れる。それと同じで、目に見えない信仰が、印として肌に現れる。
「バアルが在った頃は、力の循環があった」
アナトの声が、少しだけ柔らかくなった。兄の話をするときだけ、この女神の声は角が取れる。
「一族が信仰を通じて力を捧げ、バアルがそれを受け取り、豊穣として還す。水が天から降り、地に沁み、川を流れて海に注ぎ、また雲になって天に昇る——それと同じ循環だ。止まることなく、巡っていた」
「それが、バアルが不在になって——」
「止まった」
短い一言だった。
「受取人のいない捧げものが、一族の血の中に滞っている。行き場のない力が、身体を蝕んでいる。味覚を奪い、声を奪い、触覚を奪う。巡るはずの水が、一か所に溜まり続ければ腐るだろう。それと同じことが、お前たちの身体の中で起きている」
帳面の上で、筆が止まった。
書くべき文字は分かっている。だが指が動かなかった。
一つ、息を吐いた。
「母だけ印が出ないのは——」
「婚入した者だからだ。ウガルの古い血を引いていない」
そうだろうと思っていた。だが、確定したことで胸の奥が重くなった。母だけが正常なのは、母だけがこの信仰の血脈の外にいるから。母だけが家族の苦しみを共有できないのは、母の血がベン=シャハルの血ではないから。
母がひとり台所で泣いていた姿が、また浮かんだ。
帳面を閉じた。
静かに、確認した。
「つまり、僕の一族は——生まれながらにバアルに『捧げられた』存在だった」
言葉にすると、奇妙な感覚があった。怒りだろうか。悲しみだろうか。どちらでもない気がした。もっと静かな、もっと深い場所にある感情だった。知らなかった。知らされなかった。祖父も、曾祖父も、その前の代も。誰も知らないまま、生まれた時から神に捧げられていた。
知らずに結ばれた契約。商人にとって、それは最も忌むべきものだ。
だが——怒りは、今は帳簿の裏に挟む。
「一つ、聞いていいですか」
「何だ」
「信仰が血に刻まれる。それなら——バアルは、自分に捧げられた一族がいることを知っていたはずだ」
アナトの肩が、微かに動いた。
「知っていて、なぜ何もしない。不在になれば循環が止まることくらい、分かっていたはずだ。分かっていて冥界に留まった。僕の弟が声を失い、父が手の感覚を失い、街中の古い家の人間が一つずつ壊れていくことを——知っていたはずだ」
沈黙。
アナトは目を逸らした。
視線が、星空の向こうに逃げた。
「……知らん。だが、それを聞くためにもバアルを見つけなければならない」
目を逸らした。
この女神は嘘がつけない。嘘をつく代わりに、目を逸らす。言えないことがあるとき、視線で逃げる。商人の目はそれを見逃さない。
アナトは何かを知っている。あるいは、何かを推測している。バアルが冥界に留まる理由。一族を見捨てた——あるいは見捨てたのではない、何か別の理由。
今夜は、それ以上は聞けなかった。
帳面を膝から下ろし、夜空を見上げた。星が散りばめられた空の下で、アナトの赤い髪が風に揺れている。
「見つけましょう。バアルを」
「……ああ」
珍しく短い返事だった。いつもなら「当然だ」とか「言われなくとも」と返すところを、ただ「ああ」とだけ。
その一音に、複雑な響きが混じっていた。




