商人の耳
港湾地区の寄合所は、朝から煙草の煙と商人たちの声で満ちていた。
石造りの低い建物の中に、長い木卓がいくつも並んでいる。壁には各地の相場を記した板が掛けられ、隅の棚には秤と分銅が整然と並ぶ。ウガルの商人たちが情報を交換し、取引の下交渉をし、時に賭け事に興じる場所だ。
アシュタルは帳面を片手に、卓から卓へと渡り歩いた。
「ゾハルのおじさん。少し聞きたいことがあるんだけど」
穀物商のゾハルは、太い腕で杯を傾けていた。赤ら顔の大男で、この寄合所の古株だ。
「おう、若旦那。何だ、商談か?」
「いや、調べ物です。——印のある者を知りませんか」
ゾハルの顔から笑みが消えた。杯を卓に置き、声を落とした。
「うちの甥だ。先月から耳が遠くなった。十七の若造が、爺さんみたいに『えっ?』って聞き返すんだ。笑えねえよ」
帳面に記す。ゾハルの甥。十七歳。聴覚低下。ゾハル家はウガルに四代続く穀物商。
「他に心当たりは?」
「ダニイルんとこの娘。あれは目だ。視界がぼやけるって泣いてた。織物師なのに、糸の色が分からなくなるって」
記す。ダニイルの娘。織物師。視覚障害。ダニイル家は五代以上のウガル古参。
寄合所を出て、次の場所へ向かった。
港の荷揚げ場で、漁師に声をかけた。魚市場の仲買人に聞いた。染物屋の女将に尋ねた。油商の老人に、革細工師の若者に、薬売りの婆さんに。
一軒ずつ、一人ずつ。
商人の聞き込みは、官吏の尋問とは違う。相手の警戒を解くところから始める。世間話をし、商売の調子を聞き、子供の成長を褒め、新しい仕入れ先の噂を教える。そうして相手の口が緩んだところで、さりげなく本題に入る。「ところで——」の一言は、商人の最強の武器だった。
日が傾く頃、帳面は情報で埋まっていた。
部屋に戻り、卓に帳面を広げた。集めたデータを整理する。
印のある者の一覧。名前、年齢、職業、住所、家系、発症した感覚喪失の種類。全部で二十三人。アシュタルの一族を含めれば、さらに増える。
並べてみると、法則が浮かび上がった。
第六話で気づいた仮説——「古い家系に偏っている」——が、今日の調査で確証に変わった。
二十三人全員が、ウガルに三代以上住む家の者だった。例外はない。新参の商人や、外国から来た職人には一人も出ていない。さらに絞り込むと、全員の家にバアル神殿への奉納の記録があった。年に一度の大祭での奉納だけでなく、日常の小さな供え物——穀物の初穂、漁の初獲り、新しい商品の一部——を欠かさず神殿に届けてきた家系。
帳面に下線を引いた。
——古い家系。バアルへの奉納歴。例外なし。
偶然ではない。二十三人全員が同じ条件を満たしている確率は、偶然では説明がつかない。印は無作為に出現しているのではなく、明確な条件に基づいて現れている。
では、その条件を作ったのは誰か。
帳面を閉じ、考えた。
モトが呪いとして印を刻んだのなら、なぜ古い家系だけを狙う? モトにとって人間の家系など区別する理由がない。死の前では新参も古参も等しい。ならば、印を刻んだ者は——あるいは印が発動する条件を設計した者は——ウガルの古い信仰の歴史を知っている何者かだ。
足音がした。
窓の外——正確には、屋上から降りてくる足音。アナトだった。昼間は姿を消していたが、夜になると戻ってくる。神の時間感覚は人間と違うのだろう。
「見てください」
帳面を差し出した。
アナトが受け取り、頁をめくった。金色の瞳が文字の列を追う。名前、家系、奉納歴。整然と並んだ情報の海を、女神の目が泳いだ。
「古い一族。バアルへの奉納歴のある家系。これに心当たりはありますか」
アナトの目が、少し見開かれた。
帳面から顔を上げ、アシュタルを見た。それからまた帳面に目を落とし、指で一行をなぞった。唇が微かに動いたが、言葉にはならなかった。
「……ある」
短い答えだった。
だが、その二文字の重さを、アシュタルの耳は聞き取った。「ある」と言ったときのアナトの声には、記憶の底から何かを引き上げるような、重い響きがあった。知っていたのか。今この瞬間に繋がったのか。どちらにせよ、この女神は何かを掴んでいる。
アナトは帳面をアシュタルに返し、窓の外を見つめた。
「古い血か」
呟いた。
その声には、珍しく重みがあった。怒りでも苛立ちでもない。何かを思い出している声だ。あるいは、何かに気づいた声。
アシュタルは帳面の筆を止め、アナトの次の言葉を待った。
商人は、相手が話し始める瞬間を知っている。沈黙が破れる寸前の、あの微かな息遣い。アナトの唇が開きかけ——しかし、閉じた。
今夜は、ここまでらしい。
アシュタルは帳面に、小さく一行だけ書き足した。
——アナト:「古い血」に反応。詳細は次回。




