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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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味のない食卓

 母の作る穀物粥は、街で一番うまい。


 少なくとも、アシュタルはずっとそう信じていた。石臼で挽いた大麦を、羊の乳でゆっくり煮て、干した棗椰子なつめやしの実を刻んで混ぜる。仕上げに蜂蜜をひと匙。火から下ろす直前に胡麻油を数滴。それが母の味だった。


 湯気が立っている。


 目の前の椀から、白い湯気が立ち上り、朝の光に溶けていく。穀物が煮えた甘い匂いがするはずだった。蜂蜜と棗椰子の、あの重たい甘さが鼻腔を満たすはずだった。


 何も感じなかった。


 匙で掬い、口に運んだ。舌の上で、温かい何かがとろりと広がる。温度は分かる。舌触りも分かる。大麦の粒が歯に当たる感触も。だが味がない。甘くない。塩気もない。穀物の風味も、蜂蜜の香りも、胡麻油の芳ばしさも——何もない。ただの温かい泥を食べているのと変わらなかった。


「おいしいでしょう? 今日はね、塩を少し多めにしたの」


 母が笑った。食卓の向こう側から、いつもの穏やかな笑顔を向けている。白い布で髪を覆い、朝の支度を終えたばかりの手は、まだ竈の熱を帯びているのだろう。


「ああ、うまいよ」


 嘘をついた。


 食卓の向かいで、ヤリムが筆を走らせた。木の板に墨で書く。声を失った弟の、唯一の言葉。


 ——おいしい。


 小さな文字だった。丁寧に書かれている。母に見えるように、板を少し傾けて。


 ヤリムも味覚を失っている。アシュタルは知っていた。弟の「おいしい」は嘘だ。母を安心させるための、優しい嘘。十四歳の子供が、母親に嘘をつかなければならない食卓。


 父タグムが器を持ち上げようとして、指が滑った。椀が傾き、粥が少しこぼれた。


「おっと」


 父は笑って誤魔化した。だが、アシュタルは見ていた。指先の感覚が鈍っているのだ。触覚の低下。父の場合は手から始まっている。商人にとって、手の感覚は命だ。布の質を指で確かめ、穀物の粒を摘んで品定めをし、契約の粘土板に印を押す——その全てに、指先の感覚が要る。


 父は何も言わなかった。


 母が布巾でこぼれた粥を拭き、「あらあら」と微笑んだ。


 誰も本当のことを言わない食卓だった。


 味のない粥を食べ、味のない果物を齧り、味のないパンを千切る。全員が「おいしい」と言い、全員が嘘をついている。母だけが本当に味を感じている。母だけが、この食卓で唯一の正常な人間だった。


 食事を終え、部屋に戻った。


 帳面を開く。新しい頁の上部に、日付を記した。


 ——症状記録。


 味覚:消失(確定)。三日前から完全に感じない。

 嗅覚:残存。ただしやや鈍化の兆候あり。

 触覚:指先にわずかな鈍化。物を落とすほどではない。

 聴覚:正常。

 視覚:正常。

 睡眠:眠れるが浅い。夢を見なくなった。


 筆を止めた。


 自分の体を帳簿のように記録する行為は、冷静に見れば異様だった。商品の在庫を数えるように、自分の感覚を一つずつ確認し、残っているものと失われたものを仕分ける。だが、そうしなければ正気を保てなかった。数字は感情を括弧に入れてくれる。「味覚消失」と書けば、それは「事実」になる。事実には対処できる。対処できるものは、怖くない。


 怖くないはずだった。


 帳面を閉じ、台所へ水を取りに行った。


 足音を殺して廊下を歩く。商人の息子は、夜中に帳簿を調べに行くとき足音を立てない癖がついている。


 台所の手前で、足が止まった。


 泣いていた。


 母が、一人で泣いていた。


 竈の前にしゃがみ込み、布巾を口に押し当てて、声を殺していた。肩が小さく震えている。朝の片付けはとうに終わっていて、竈の火も落ちている。暗い台所の中で、母は一人きりで泣いていた。


 アシュタルは柱の陰で動けなくなった。


 母は印を持たない。ウガルの古い血を引いていない。嫁いできた人だ。だから感覚も失わず、声も失わず、何一つ奪われていない。何一つ奪われていないからこそ——家族全員の苦しみを、自分だけが「分からない」ことに苦しんでいる。


 味のない食事を「おいしい」と嘘をつく家族。声を失った息子。指の感覚を失いつつある夫。その全てを見ていて、何もできない。同じ痛みを分かち合うことすらできない。


 母の強さを、アシュタルはずっと知っていた。商会が苦しいときも、取引先に騙されたときも、母は笑っていた。「大丈夫」と言って、食卓を整え、子供たちの服を繕い、父の背中を支えた。


 その母が、泣いている。


 声を殺して。一人で。誰にも見せずに。


 アシュタルは、そっと踵を返した。


 水を取りに来たことは、なかったことにした。母が一人で泣く時間を、奪ってはいけない。強い人間が泣ける場所は、一人きりの暗い台所だけなのだ。


 部屋に戻り、帳面を開き直した。


 症状記録の頁を見つめる。味覚消失。触覚低下。睡眠障害。整然と並んだ文字の向こうに、母の震える肩が重なった。


 帳面を閉じた。


 窓の外を見た。朝日が昇りかけている。母の手が、食卓を整えていた手が、竈の前で震えていた手が、目に焼きついて離れなかった。


 あの手の温かさを、自分が感じられなくなる日が来るのだろうか。


 ——来させない。


 帳面を握りしめた。


 何としても。


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