欠けた言葉
神殿から戻った夜は、まだ明けていなかった。
屋上の乾いた風が、帳面の頁をめくろうとする。アシュタルは指で押さえ、懐から取り出した欠片を一つずつ並べた。布から出した粘土の断片は、松明の残り火に照らされて鈍い橙色を帯びている。文字の刻まれた面を上にして、破断面の角度を合わせ、読み取れた順に帳面へ書き写していく。
その横を、アナトが歩き回っていた。
五歩で壁に着き、踵を返し、五歩で反対の壁に着く。革の靴底が砂を噛むたびに、小さな音が夜気に散った。戦の女神の苛立ちは空気を振動させる類のものだが、今は辛うじて抑えているらしい。それでも屋上の乾いた植木鉢が、微かに震えていた。
「モトだ」
三度目だった。
「モトの仕業だ。間違いない」
アシュタルは帳面から目を上げなかった。
「根拠を聞かせてください」
「根拠?」
アナトが足を止めた。金色の瞳が、値踏みするように細くなる——いや、値踏みは商人の癖だ。女神のそれは、獲物を見定める猛禽の目だった。
「動機がある。自分に不利な裁定を隠したかった。能力がある。冥界の力は神殿の奥にも届く。そして機会があった。バアルが不在の間、この街の神殿を守る者はいなかった」
三つの条件を、指を折りながら述べた。論理的だった。感情に任せた断定ではない。アシュタルは少し意外に思いながら、帳面に「アナト仮説」と書き、その下に三つの条件を書き写した。
「動機、能力、機会。商人が取引相手の信用を調べるときと同じ三要素ですね」
「……商いに例えるな」
「褒めているんです。筋が通っている」
アナトの眉がわずかに動いた。褒められることに慣れていないのか、あるいは人間に褒められることが不愉快なのか。おそらく両方だろう。
アシュタルは帳面に視線を戻し、欠片を指でなぞった。
「ただ——一つ、引っかかることがあります」
「何だ」
「破壊の仕方です」
欠片を一つ持ち上げ、月明かりにかざした。破断面は鋭い。力任せに砕いたのではなく、何らかの力で割られている。だが、その割り方が妙だった。
「本当に隠したいなら、痕跡を残しません。粘土板ごと消し去ればいい。冥界の力で塵に還すことだってできるはずだ。それに——」
帳面を広げ、書き写した文字の配置を示した。
「破片を『一部だけ』持ち出すのは中途半端です。全部持ち出すか、全部壊すかするのが道理でしょう。なぜ一部だけ持ち去って、残りは現場に放置した?」
アナトの歩みが止まった。
「さらに言えば——」
帳面の一行を指で叩いた。
「『捧げものは死への供物にあらず』。この文言は残っていました。モトにとって最も不利な一文です。自分への供物ではないと明記されている。これを残すでしょうか。隠すなら真っ先にこの部分を消すはずだ」
沈黙が降りた。
夜風が帳面の頁を揺らした。アシュタルは指で押さえたまま、アナトの反応を待った。商談で相手の返答を待つときと同じだ。沈黙は焦って埋めない。相手に考える時間を与える。
アナトは腕を組み、壁に背を預けた。
「……ふん。小賢しい虫だ」
声から、侮蔑の色は薄かった。
以前の「面白い虫」とは違う。あれは珍しい生き物を見つけた好奇心だった。今の「小賢しい虫」には——認めたくないものを認めかけている響きがあった。商人の耳は、言葉の裏に流れる感情の温度を聞き分ける。この女神の声は、ほんの少しだけ温度が上がっていた。
「では誰だ」
「分かりません。まだ材料が足りない」
「使えないな」
「使えるようになるために調べるんです」
アシュタルは立ち上がり、屋上の縁に歩み寄った。夜空は雲が薄く、星がまばらに見えていた。視線を巡らせる。港の方角。市場の方角。そして——
エル神殿の方角。
「モトでもない。あなたでもない。バアルでもない」
指折り数えるように、候補を消していく。
「なら、この粘土板に触れられる立場にいて、かつ情報を『部分的に残す』理由がある者——それは誰ですか」
アナトが隣に立った。同じ方角を見ている。
答えはなかった。
遠く、街の北の丘。エル神殿の閉ざされた門の向こうに、明かりが一つ灯っていた。




