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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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粘土板の欠片

 砕かれた粘土板の欠片が、松明の光に照らされていた。


 アナトの怒りが空気を震わせている。保管庫の壁が微かに振動し、棚の粘土板が細かく揺れ続けていた。神の感情が物理的な力になる。人間の怒りとは根本が違う。


 ハダドゥは壁に背をつけ、顔を蒼白にして動けなくなっていた。無理もない。この振動の源が隣にいる「女戦士」だとは気づいていないだろうが、本能的な恐怖は正直だ。


「アナト」


 名を呼んだ。低い声で、しかしはっきりと。


「——何だ」


「揺らさないでください。残りの欠片まで落ちます」


 一拍の間があった。振動が止んだ。怒りが消えたわけではない。抑えただけだ。ハダドゥが安堵の息を漏らした。


 アシュタルは床に膝をつき、欠片を一つずつ拾い始めた。


 帳簿の整理と同じだ。破れた帳面の頁を順番に並べ直すのと原理は変わらない。欠片の形状を見る。破断面の角度を合わせる。文字の繋がりを読む。右から左へ書かれたウガリット文字——文字の途切れ方と次の欠片の始まりを照合する。指先が粘土の表面をなぞり、刻まれた楔の深さから同じ筆圧の文字を探す。根気のいる作業だった。だが商人は根気で食べている。


 十二の欠片を拾い上げ、棚の平らな面に並べた。


「アナト。読めるところを読んでください」


 アナトが傍に来た。怒りを噛み殺した顔で欠片を見下ろし、目を細める。


「……ここは『エルの裁定により』」


 アシュタルが欠片の位置を調整する。隣にもう一片を合わせた。


「その続きは?」


「『バアルとモトの間に』——ここで途切れている」


 別の欠片を探す。形状が合うものを見つけ、隙間に嵌めた。完全には合わない。間に欠けた部分がある。


「この先は?」


「『均衡の——』。ここも途切れた。次の欠片が足りない」


 アシュタルは残りの欠片を片端から確認した。裏返し、角度を変え、文字の断片を一つずつ照合していく。ハダドゥが恐る恐る近づき、松明を掲げて手元を照らした。


「あ、あの……これは何が書かれていたのですか」


「エルが定めた裁定です。バアルとモトの戦いの後に下された——おそらく、この世界の均衡に関わる最も重要な文書のひとつ」


 ハダドゥが息を呑んだ。


 アシュタルの手が止まった。


 一つの欠片。他より少し大きい。文字がはっきりと残っている。


「これを」


 アナトに差し出した。アナトが受け取り、目を落とす。


 金色の瞳が見開かれた。


「——『捧げものは死への供物にあらず。生と死の——』」


 そこで途切れていた。


「生と死の」何なのか。その先の文字は、欠片の破断面とともに失われている。


「続きは」


「ない」


 アシュタルは残りの全ての欠片をもう一度確認した。並べ直し、隙間を探り、あらゆる組み合わせを試した。ない。肝心な部分が欠けている。


 そして、気づいた。


「破片の数が足りない」


「何?」


「粘土板をここで砕いたなら、全ての欠片がこの場にあるはずです。でも、復元しようとすると明らかに足りない部分がある。一部の破片は——」


「持ち出されている」


 アナトが断じた。低い、抑えた声。しかし怒りは鋼のように硬かった。


「モトの仕業だ。奴が粘土板を壊し、破片を持ち去った。自分に不利な裁定を隠すために」


 ハダドゥが激しく頷いた。


「そ、そうに違いありません。モトの手の者が神殿に入り込んで——」


 二人の意見は一致していた。論理的にも筋が通る。モトにはバアルとの裁定を隠す動機がある。粘土板を破壊し、核心部分を持ち去ることで、裁定の内容が永遠に闇に葬られる。


 だが、アシュタルは即断しなかった。


 手の中の欠片を見つめた。「捧げものは死への供物にあらず」——この一文は残されていた。もし本当にモトが全てを隠したかったのなら、なぜこの欠片を残した。持ち去ったのは核心部分だけ。まるで、読む者に「ここまでは知れ、しかしその先は知るな」と言っているような——


 あるいは、壊した者がモトではないとしたら。


 いや。情報が足りない。今ある材料で断定するのは商人のやり方ではない。帳面の空白欄に仮説を書き込むのは、証拠が揃ってからだ。


「帰りましょう」


 読み取れた全ての文字を帳面に書き写し、欠片の中で持ち出せるものを慎重に布で包んだ。証拠は手元に置く。残りは元の位置に戻した。痕跡を残さない。


 保管庫を出て、回廊を戻る。来たときと同じ道を、同じ慎重さで。ハダドゥが裏門の鍵を閉め、三人は夜の闇に紛れた。


 裏門の外で、ハダドゥと別れた。


「ありがとうございました。約束は守ります」


「……あの。『捧げものは死への供物にあらず』って、つまり——」


「つまり、あなたの腕の印は、死ぬためのものではないかもしれない」


 ハダドゥの目に、初めて光が宿った。恐怖ではなく、希望の光だった。


「ただし、まだ『かもしれない』です。続きが分からない以上、断定はできません」


「それでも——それだけでも」


 ハダドゥは深々と頭を下げ、夜の路地に消えていった。


 二人きりになった。


 アシュタルは歩きながら、懐の欠片に手を当てた。布越しに、粘土の硬い感触が指に伝わる。


「捧げものは死への供物にあらず」


 呟いた。


「つまり、弟たちの印は——モトへの供物ではない。死ぬための印ではない」


「では何だ」


 アナトの問いは当然のものだった。


「分かりません。『生と死の——』何なのか。続きが欠けている」


「だからモトの仕業だと——」


「かもしれません。ただ——」


 言いかけて、やめた。今の段階で憶測を口にしても混乱を招くだけだ。


「ただ、何だ」


「……いえ。まず、手元にある情報を整理します」


 家に戻り、屋上で帳面を広げた。今夜得た全ての情報を書き出す。壁面碑文の内容。粘土板の欠片から読み取れた断片。そして、核心の一文。


 ——捧げものは死への供物にあらず。生と死の(   )。


 空白が、帳面の上で口を開けている。


 答えはまだ欠けている。だが、方向は変わった。印は死の印ではない。ヤリムの声を奪い、一族を蝕んでいるあの印は、これまで思い込んでいたものとは違う。モトへの供物——死への片道切符。そう信じて恐れてきたものが、実は別の何かだったとしたら。


 ヤリムの顔が浮かんだ。声を失った弟。筆談で「食べないの? もったいないよ」と書いて笑う、あの弟。あの子の腕の印は、死のためのものではないかもしれない。


 希望と疑問が、同時に胸に湧いた。


 帳面を閉じ、夜空を見上げた。雲の切れ間から、一つだけ星が覗いていた。


「答えの続きは、どこにある」


 独り言のつもりだった。


「探せばいい」


 背後からアナトの声がした。振り返ると、屋上の縁に立っていた。夜風に赤い髪が揺れている。


「探すのは得意だろう。商人」


 それは励ましではなかった。アナトはそういう言い方をしない。ただ事実を述べただけだ。お前は探すのが得意な人間だ。だから探せ。


 けれど——その事実の中に、信頼の芽が混じっていることを、アシュタルの商人の耳は聞き取っていた。


「ええ。探します」


 懐の欠片を握りしめた。


 答えは欠けている。だが、欠片はここにある。


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