深部への道
月のない夜だった。
雲が空を覆い、星さえ隠れている。ウガルの街は闇に沈み、港の灯だけが遠くで揺れていた。神殿の裏門に着いたとき、アシュタルは自分の手が見えなかった。
「左に三歩。段差がある」
アナトの声が闇の中から届いた。彼女には暗闇など関係ない。神の目は夜を昼のように見通す。アシュタルが壁に手を当ててよろよろと歩いているのを、おそらく鮮明に見ているのだろう。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。時間が惜しい」
裏門の前に人影があった。ハダドゥだ。フードを目深に被り、手に小さな松明を持っている。火はまだ点けていない。
「お待たせしました」
「……本当に来たんですね」
ハダドゥの声は震えていた。だが、来た。来ると決めた。それだけで十分だった。
「手短に行きましょう。案内をお願いします」
ハダドゥが裏門の鍵を開けた。錆びた金属の軋む音が、夜の静寂に不釣り合いなほど大きく響いた。三人とも息を止めた。何も起きない。
門をくぐり、神殿の内部に滑り込んだ。ハダドゥが裏門の鍵を内側からもう一度かけた。用心深い。見直した。
ハダドゥが松明に火を点けた。小さな炎が回廊を照らす。昼間に見た荘厳な神殿とは別物だった。影が壁を這い、柱の浮き彫りが炎に揺れて、まるで生きているように見えた。嵐の雲を抱えた神の像が、こちらを見下ろしている。夜の神殿は眠っているのではない。目を閉じて、侵入者の足音を聞いている。そんな錯覚がした。
「こちらです。深部への回廊は二つ奥の角を——」
「待て」
アナトが足を止めた。
壁の浮き彫りを見ていた。嵐の神——バアルの姿が彫り込まれた石壁。右手に稲妻の槍を構え、左手を天に掲げた雄々しい立像。
アナトの手が、壁に触れた。
一瞬のことだった。指先が石の表面を撫で、すぐに離れた。表情は変わらない。金色の瞳は何も語らない。だがその一瞬の動作に、千年分の感情が凝縮されていた。
アシュタルは見なかったふりをした。商人の礼儀だ。相手が見せたくないものは見なかったことにする。ただ、帳面には書かなかった。書けなかった。あの指先に込められていたものは、数字では測れない。
「進みましょう」
回廊を奥へ。松明の光が届く範囲は狭く、数歩先は闇に呑まれている。石壁に刻まれた嵐の紋様が次々と現れては消えていく。空気が変わった。乾いた石の匂いと、古い香の残り香。地上の喧噪は完全に消え、自分の足音と心臓の音だけが聞こえる。深部に近づいている。
アシュタルの右手首が疼いた。布の下で、印が微かに温もりを帯びている。バアルの神殿の中核に近づいているからか。反応している。何に、とは分からないが。
ハダドゥが立ち止まった。
「ここからが聖域です。普段は神官長の許可がなければ——」
「今夜は許可の代わりに、勇気をいただきました」
ハダドゥが小さく笑った。笑えるくらいには、少し落ち着いたらしい。
聖域の扉は重かった。二人がかりで押し開けると、その向こうに広い空間が広がっていた。
壁面碑文。
巨大な石壁の全面に、古ウガリット文字がびっしりと刻まれている。松明を近づけると、文字が赤い炎に照らされて浮かび上がった。楔形とは異なる、ウガリットの三十文字のアルファベット。一つ一つの文字が深く正確に彫られている。
「これは——」
アシュタルは帳面を取り出した。読めない。古ウガリット文字の基本は独学で学んだが、碑文の文体は日常のそれとは異なる。
「読める」
アナトが一歩前に出た。碑文に目を走らせ、静かに読み上げ始めた。
「『嵐の王バアルと死の王モトは七日七晩にわたりて戦えり。天は裂け、地は震え、海は逆巻きて岸を呑み込みたり。七日目の黎明にバアルは膝をつき、モトの顎に呑まれて冥界へ落つ』」
アシュタルは帳面に書き写した。神話ではない。歴史資料として。七日七晩の戦い。天が裂け、地が震えた。それが比喩ではなく事実だと言うなら、この世界の歴史は人間が思っているよりも遥かに激しいものだったのだろう。
「『バアルの不在により天候は乱れ、雨は止み、大地は涸れたり。民は飢え、神々は嘆けり。かくてエル、全てを見そなわし、裁定を下したもう——』」
アナトの声が、一瞬だけ止まった。
「——『嵐と死の均衡を定め、これをバアルの神殿に封ずべし』」
均衡。バアルとモトの間に、エルが何らかの均衡を定めた。その詳細が、粘土板に記されているはずだ。
「ここに記された戦いは——あなたが見ていたものですか」
問うべきではなかったかもしれない。だがアシュタルの口は、商人の癖で、確認すべきことを確認してしまう。
「見ていた」
短い答え。それ以上は語らなかった。アシュタルもそれ以上は訊かなかった。
碑文の奥に、さらに小さな通路があった。ハダドゥが松明を掲げて先を照らす。
「この先が保管庫です。粘土板はここに——」
通路を抜けると、棚が並ぶ部屋に出た。保管庫。大量の粘土板が木の棚に整然と並んでいる。大小さまざま、状態も年代もまちまちだ。
アシュタルの目が変わった。商人の目。在庫を前にした問屋の目だ。
「年代順に並んでいますか」
「いえ、内容別と聞いています。祭祀の記録、奉納の記録、神託の記録——」
「なるほど。分類は……」
棚を見渡し、配置の法則を読み取る。帳簿の整理と同じだ。左から右へ、上から下へ。古い順か、重要度順か。いくつかの粘土板の表面を確認し、パターンを掴んだ。
「祭祀が手前、奉納が中段、神託と裁定が——最奥ですね」
ハダドゥが目を丸くした。
「商人は物を探すのが上手いのですね」
「在庫管理と同じです。棚の並びに法則がある以上、探し物は見つかります」
商人の在庫管理術が、まさか神殿の保管庫で役に立つとは。父が聞いたら笑うだろう。あるいは、「それでこそベン=シャハルの息子だ」と頷くかもしれない。
最奥の棚に向かった。松明の光が揺れる。棚の一番奥、壁に接した場所に——
粘土板があった。
いや。粘土板だった《《もの》》が、あった。
砕けていた。
欠片が棚の上に散乱し、一部は床にまで落ちている。割れ方は自然劣化のそれではなかった。鋭い打撃の痕。意図的に、何者かが壊した。
背後でアナトの気配が変わった。空気が震えた——文字通り。彼女の怒りが、微かな振動となって保管庫の壁を揺らした。棚の粘土板がカタカタと音を立てる。松明の炎が横に靡いた。
ハダドゥが怯えて後ずさった。
「な、何が——」
「落ち着いてください。両方とも」
アナトへの牽制も含めていた。ここで暴れられたら、残った欠片ごと保管庫が吹き飛ぶ。
アシュタルだけが、動かなかった。
静かに膝をつき、欠片を一つ手に取った。指先に粘土の冷たい感触が伝わる。これが——求めていたものの残骸だった。




