力と知恵
潜入の前夜だった。
アシュタルは家の屋上で準備を整えていた。暗闇で使う小さな油灯。帳面と葦の筆。神殿の見取り図——商人仲間から手に入れた、出入り業者用の略図を元に自分で書き起こしたもの。退路は三本。合流地点は裏門の東側。逃走用の荷車を路地に置いておく手配も済ませた。
夜風が砂の匂いを運んでくる。乾いた、内陸の風だった。明日は雲が出るかもしれない。月のない夜に雲が重なれば、闇はさらに深くなる。好都合だ。右の手首に巻いた布の下で、印が微かに疼いた。気のせいかもしれない。だが最近、神殿に近づくたびにこの疼きが増している気がした。
階段を上がってくる足音がした。足音というには軽すぎる。アナトの歩き方はいつもそうだ。地面に触れているのかいないのか分からない、神の身体。
「また道具を並べているのか」
アナトは屋上の縁に腰を下ろし、眼下に広がるウガルの夜景を見下ろした。港の灯が海面に揺れている。
「準備は大事です」
「こんな回りくどいことをせずに、私が壁を破れば済む話だ」
来た。この台詞を待っていた——というのは嘘で、正直なところ、この議論を何度繰り返すのかと思わなくもなかった。
「壁を破る。それはできるでしょう」
「当然だ。戦の女神が壁一枚壊せないとでも思うのか」
「思いません。あなたの力なら、神殿ごと更地にできると思います」
アナトが微かに目を細めた。皮肉を言われているのか褒められているのか判断しかねているようだった。褒めている。半分は本心だ。この女神の力は、人間の物差しでは測れない。だからこそ、その力を使わない理由を論理で示さなければならない。
「でも、壁を壊したら、その奥にある粘土板も壊れるかもしれない」
「……」
「粘土板は焼成粘土です。衝撃に弱い。あなたの力で壁を破壊すれば、振動だけで割れる可能性がある。割れたら読めません。読めなければ、ここに来た意味がなくなります」
アナトは反論しなかった。論理的に正しいことは理解できる。理解できてしまうから、余計に苛立つのだろう。
「それだけではありません」
アシュタルは指を立てて続けた。商談で条件を列挙するときの癖だった。
「あなたの正体が街に知れたら、僕の一族が標的になります。バアルの関係者が破壊行為をした——そう受け取られれば、モト派の者たちが黙っていない」
「モト派だと?」
「ウガルにもいます。モトを信仰する者たちが。表立ってはいませんが、バアル神殿の影響力が弱まっている今、地下で勢力を伸ばしている。商人の耳には入ってきます。港の東区画では、モトの護符が出回っているという噂もある」
アナトの眉が微かに動いた。知らなかったわけではないだろう。ただ、人間の政治的な力学にまで注意を払ったことがなかったのだ。彼女にとって敵とは、剣で斬れる相手のことだった。目に見える敵は斬れる。だが噂は斬れないし、政治は壊せない。
「正面から壁を壊す。力で押し通す。——あなたにとっては呼吸と同じくらい自然なことだと思います」
「……」
「でも今回は、力では解けない。粘土板を壊さず、正体を知られず、一族を危険にさらさず、目的を達成する。そのためには——」
「黙れ」
短い一言だった。怒りではなかった。もっと複雑な何かだった。
アナトは腕を組み、夜空を見上げた。長い沈黙が落ちた。風が吹いた。赤い髪が揺れ、星明かりが金色の瞳に映った。港の方角で犬が一声吠え、それきり静かになった。
数千年。この女神は数千年のあいだ、力で全てを解決してきた。膝まで血に浸かって敵を屠り、剣で道を切り拓き、壊せないものなどないと信じてきた。バアルが冥界に落ちたとき、単身で冥界に乗り込んだのもそうだ。モトを鎌で刈り、火で焼き、臼で挽いた。それでも——バアルは戻らなかった。
力だけでは、解決しないものがある。
この女神はそれを、すでに知っているのだ。ただ、認めたくないだけで。認めてしまえば、これまでの数千年が——力だけで戦い続けてきた日々が——問い直されてしまうから。
「……好きにしろ」
三文字だった。低い声で、投げるように。
だがアシュタルにはその重さが分かった。数千年の戦士が、武器ではなく他者の手法に身を委ねる。それは敗北ではない。不本意な、しかし理性的な譲歩だった。
二人のあいだの力関係が、微かにシフトした。腕力では比べものにならない。だが「方法の選択」において——この場に限り——主導権はアシュタルにあった。
沈黙のあと、アナトが問うた。
「一つ聞く」
「どうぞ」
「お前は怖くないのか」
意外な質問だった。アシュタルは手を止めて顔を上げた。
「神殿に忍び込み、神の遺物を調べる。見つかれば投獄、最悪は処刑だ。人間の身で」
初めてだった。アナトがアシュタルに、実務でも契約でもない質問をしたのは。個人的な問い。純粋な——おそらく本人も気づいていない——関心。
「怖いですよ」
正直に答えた。虚勢を張る場面ではなかった。この女神の前では嘘は通じない。嘘が通じないなら、正直さを武器にするしかない。それも一種の交渉術だ。
「膝が笑うと思います。手も震えるかもしれない。暗い神殿の中で、自分がどれだけ小さいか思い知るでしょう」
「……それでも行くのか」
「怖さで取引をやめたことはありません」
短い沈黙。
アナトの金色の瞳が、じっとアシュタルを見ていた。値踏みでもない。査定でもない。もっと別の何かを探すような目。
それが何なのか、アシュタルには分からなかった。ただ、値踏みされるのとは違う居心地の悪さがあった。商人として見られるのは慣れている。だが、それ以外の何かとして見られるのは——まだ、慣れていない。
「……ふん」
アナトは立ち上がった。何も言わなかった。何も言わないことが、彼女なりの答えだったのかもしれない。
夜空を見上げた。星が数えきれないほど散らばっている。明日の晩、月は出ない。雲が星を隠せば、闇は完全になる。その闇の中で神殿の底に潜る。商人と女神が、それぞれの武器を携えて。剣と帳面。力と知恵。噛み合うはずのない組み合わせが、どういうわけか噛み合い始めている。
「明日に備えて眠ります」
道具を片づけながら言った。
「あなたは——眠るんですか?」
「神は眠らん」
「そうですか。では、見張りをお願いしても?」
「……勝手にしろ」
同じ三文字。だが先ほどとは少し違う響きがあった。
階段を下りながら、アシュタルは思った。
明日の夜、この女神は自分の背中を守ってくれるだろうか。守ってくれるだろう。「好きにしろ」と言いながら、きっと。
それは信用とは違う。利害の一致とも違う。帳面に書き込める種類の勘定ではない。名前のつけ方が分からないまま、共闘の芽が静かに根を張り始めていた。




