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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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裏口の値段

 酒場を選んだのには理由がある。


 神殿の中では壁に耳がある。神官同士の会話は上にも下にも筒抜けだし、祭祀の間には常に誰かの目がある。だが街の酒場なら、喧噪が会話を飲み込んでくれる。


 港に近い酒場「赤い錨」は、商人や船乗りが集まる場所だった。粗末な木の卓が並び、安い葡萄酒と干し魚の匂いが充満している。壁際の奥まった席は薄暗く、隣の卓との間に適度な距離がある。密談向きだ。


 アシュタルは二人分の飲み物を注文し、席で待った。アナトは入口近くの柱の陰に立っている。護衛の位置だが、本人の表情は「なぜ私が見張りなどを」と語っていた。


 葡萄酒を水で割る音。誰かが笑う声。船乗りが港の噂話を大声でまくし立てている。騒がしい。だが、この騒がしさがいい。声は声に紛れ、秘密は喧噪に溶ける。


 約束の時刻に、若い神官が現れた。


 白衣ではなく、市民の衣を着ている。目深にフードを被り、入口で二度ほど周囲を窺ってから、ようやく中に入ってきた。怯えている。それも相当に。歩き方でわかる。足の運びが速すぎて、逆に目立つ。


「こちらです。座ってください」


 穏やかに声をかけ、席を勧めた。交渉の始まりは相手を安心させることだ。脅しではない。追い詰めてもいない。ただ、ここは安全な場所だと伝える。


 若い神官が腰を下ろした。手が震えている。


「飲み物をどうぞ。ナツメ椰子の果汁です。酒ではありません」


「……すみません」


 細い声だった。杯を受け取る手が、まだ震えていた。


「名前を伺っても?」


「ハダドゥ、と申します」


「ハダドゥさん。僕はベン=シャハル商会のアシュタルです。先日、神殿で少しだけお顔を拝見しました」


「……はい。あなたが神官長に、印のことを相談されていたのを——壁の向こうで聞いていました」


 やはり。あの一瞬の視線は偶然ではなかった。


「単刀直入に伺います。あなたも、印のことで困っていますね」


 ハダドゥの顔から血の気が引いた。そして、ゆっくりと左腕の袖をまくった。


 腕の内側に、銀色の円環紋様があった。アシュタルの右手首にあるものと同じ。ただし、まだ薄い。発現の初期段階だ。


「三ヶ月ほど前から出始めました」


「誰かに相談は?」


「できません」


 ハダドゥは杯を両手で包むように握り、声を落とした。


「神官長が禁じているのです。印のことを口にするな、調べるなと。『バアル様が不在だからこそ、我々が神殿を守る。余計な騒ぎは秩序を乱す』と」


 なるほど。あの拒絶の背景が見えた。神官長は印の存在自体を知っている。知った上で蓋をしている。理由は秩序の維持——いや、それだけか。アシュタルの商人の直感が、もう一段深い事情を嗅ぎ取っていた。バアルが不在のいま、神殿の権威は神官長個人の手腕にかかっている。印の騒ぎが広まれば、それは神殿の——ひいては神官長自身の——統制力の欠如を示すことになる。権威は疑われた瞬間に瓦解する。商人が信用を失うのと同じだ。


「怖いんです」


 ハダドゥの声が掠れた。


「印が広がったらどうなるのか、誰も教えてくれない。神官長に訊いても『心配するな』としか。でも、心配するなと言われて心配しない人間がどこにいますか」


 その恐怖は本物だった。そして本物の恐怖を抱えた者は、助けを求める相手を選ばない。商人であろうと、見知らぬ者であろうと——手を差し伸べてくれるなら。


「ハダドゥさん。僕には、あなたの力が必要です。そしてあなたにも、僕の調査が役に立つはずです」


「……何を、してほしいのですか」


「神殿深部への案内です。粘土板の保管庫に行きたい。エルの裁定が記された文書を調べれば、印の正体が分かるかもしれない」


 ハダドゥの目が大きく見開かれた。恐怖と期待が混じった目だった。


「で、でも、見つかったら——」


「見つからないようにします。夜間に。月のない晩を選んで」


 ここからが交渉の核心だった。アシュタルは帳面を卓に置き、身を乗り出した。


「対価をお支払いします。まず、金銭面。銀五シェケル」


「い、いえ、金は——」


「金だけではありません。僕は商人です。ウガルの有力商家に伝手がある。あなたの神殿への寄進を口利きすることができます。商家からの定期寄進が増えれば、あなたの立場も上がる」


 ハダドゥの目の色が変わった。金ではなく、立場。下級神官にとって、神殿内での地位向上は金より重い。


「さらに、調査で分かった印への対処法があれば、あなたに最初にお伝えします。これは約束です」


「……それは」


「互いにリスクを負う取引です。あなたは案内のリスクを負い、僕は調査のリスクを負う。どちらかだけが損をする形にはしません。——もう一つ。もし万が一、事が露見した場合は、全ての責任は僕が負います。あなたは『商人に脅された』と言えばいい」


「そ、そんな——」


「保険です。取引には保険をつけるのが鉄則です」


 背後で、アナトの小さな舌打ちが聞こえた気がした。「なぜ力で押し入らない」と言いたいのだろう。聞こえないふりをした。


 ハダドゥは長い間、杯の中のナツメ椰子の果汁を見つめていた。そして、顔を上げた。


「——分かりました。明後日の夜。月が出ない晩です。裏門から案内します」


「ありがとうございます」


 握手を交わした。ハダドゥの手は、もう震えていなかった。


 若い神官が去った後、アナトが奥の席に歩いてきた。ハダドゥが座っていた椅子に腰を下ろし、残っていたナツメ椰子の果汁を一口飲んで、顔をしかめた。


「甘い」


「お口に合いませんか」


「この味の話ではない」


 金色の瞳がアシュタルを射る。


「あの神官、信用できるのか」


「信用ではなく利害の一致です」


 アシュタルは帳面に取引の概要を書き込みながら答えた。


「裏切るメリットがない取引を組むのが商人の仕事です。ハダドゥさんにとって、僕を売って得られるものは何もない。逆に、僕の調査が進めば、自分の印について手がかりが得られる。利害が一致している限り、信用より確実です」


「ふん」


 アナトが鼻を鳴らした。否定はしなかった。力以外の方法論を——認めはしないが——黙認し始めている。その変化は小さいが、確かにあった。戦の女神が交渉の席を黙って見守った。それ自体が、数千年の歴史の中で前例のない出来事だったかもしれない。


 酒場を出た。夜風が地中海の潮の香りを運んでくる。港の方角から波の音が微かに聞こえ、空には星が散っていた。


「明後日の夜」


 アシュタルは呟いた。


「月のない晩。準備は二日あれば十分です」


「二日も待つのか」


「急いで失敗するより、準備して成功するほうが安い。時間も商品です」


 アナトが何か言いかけて、やめた。


 潮風に赤い髪が揺れる。その横顔を一瞬だけ盗み見て、アシュタルは視線を前に戻した。あの女神が「待つ」ことを覚え始めている。それだけでも、この二日間の投資は十分に回収できていた。


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