神官長の壁
バアル神殿は、朝日を受けて黄金色に輝いていた。
嵐の象徴が彫り込まれた石柱が並び、それぞれの柱頭に稲妻と雲の浮き彫りが刻まれている。正面入口だけで商家の屋敷が丸ごと入りそうな大きさがあり、参拝に訪れた市民が蟻の列のように吸い込まれていく。ウガルの宗教的中心地にして、政治的権威の象徴。帳面に記した「予算:銀三十シェケル」が急に心もとなく思えた。
アシュタルは砂よけの外套を脱ぎ、下に着込んでおいた正装を整えた。白い麻の長衣に、商会の紋章を刺繍した帯。腰には帳簿と葦の筆。商人としての正式な訪問。その体裁を整えるために、今朝は母に衣を縫い直してもらった。裾の糸がほつれていたのを直しながら、母は何も訊かなかった。息子が朝から正装するのは商談の日だけだと知っているから、余計な口は挟まない。父譲りの気質だった。
「待っていてください」
少し離れた日陰にいるアナトに声をかけた。旅商人の護衛を装った女神は、両腕を組んで柱にもたれている。人間の女戦士風に仕立てた革の軽装束がよく似合っているが、本人は不満そうだった。
「待つのは好かん」
「分かっています。でも、神殿の中で護衛が暴れたら交渉どころではありません」
「暴れんと言っている」
その台詞に説得力がないことを、アシュタル自身の過去二日間の体験がよく知っていた。市場で値切りの概念を説明しただけで、彼女は果物の山を睨みつけて店主を卒倒させかけたのだ。
参拝者の列に紛れ、神殿の正面入口をくぐる。内部は外観以上に荘厳だった。高い天井から光が差し込み、床の石畳に嵐の紋様が影絵のように浮かぶ。香が焚かれ、乾いた空気に甘い煙が混じっている。祈りの言葉が低く反響し、石の壁がそれを吸い込んで増幅する。まるで神殿そのものが呼吸しているようだった。
柱の一本一本が巨木のように太く、その表面にバアルの偉業が浮き彫りで刻まれている。嵐を呼ぶ神、大地に雨をもたらす神、海の怪物を打ち倒す神。この街の繁栄が誰の庇護のもとにあるかを、訪れる者の全てに思い知らせる造りだった。
受付の神官に商人としての面会を申し入れると、しばらく待たされた後、奥の間に通された。待っている間に石畳の目地を数えた。六十三。商人の癖だ。待ち時間は数字で潰す。
神官長の間は質素だった。石の壁、石の机、石の椅子。装飾を排した空間に座る男は、その部屋によく似ていた。白髪交じりの髪を短く刈り込み、深い皺の刻まれた顔に感情の色がない。
「ベン=シャハル商会のアシュタルと申します。本日は神殿深部の記録閲覧について、ご相談に参りました」
頭を下げ、用意した寄進の品——上質な香油の壺を差し出す。商談の基本だ。まず敬意を形にする。
「一族の者に奇妙な印が現れまして。神殿の記録と照合し、原因を調べたいのです。もちろん、相応の寄進は——」
「お断りします」
神官長の声は穏やかだった。穏やかで、そして完全に閉じていた。
「神殿の奥は聖域です。バアル様の御前に商人が踏み入る場ではありません」
「しかし、印の症状は深刻でして。弟は声を失い、一族の者は——」
「お気の毒なことです。しかし、それと神殿深部の閲覧は別の話。聖域の秩序を乱すわけにはまいりません」
慇懃な言葉遣い。丁寧で、かつ議論の余地を与えない拒絶だった。
アシュタルは追加の寄進を申し出た。銀十シェケル。それでも首を横に振られた。二十シェケル。変わらない。三十シェケルまで出すと言えば、神官長の目に初めて感情が浮かんだ——不快、ではない。何か別のもの。一瞬だけ瞳が揺れ、すぐに元の無表情に戻った。
「いかなる寄進をいただいても、聖域は聖域です。お引き取りください」
金で動かない。いや、金額の問題ではない。この男は「自分の判断で」断っているのではない。アシュタルの商人の目は、そこを見逃さなかった。三十シェケルと聞いたときの、あの瞳の揺れ。心が動いたのに、動けなかった。何かに縛られている。圧力か、脅迫か、あるいはもっと根深い事情か。いずれにせよ、この男個人を攻めても扉は開かない。鍵は別の場所にある。
「……失礼いたしました。お時間をいただき感謝します」
深く頭を下げて、神官長の間を辞した。
回廊に出ると、柱の陰からアナトが合流してきた。待っていろと言ったのに中まで入ってきている。この女神に「待つ」という概念を教え込むのは、果物の値切りより難しそうだった。
「断られたな」
「ええ」
「なぜ引き下がった。まだ交渉の余地があったのではないか」
アナトの声には純粋な苛立ちがあった。力で壁を壊せる者にとって、言葉で門前払いを食らうという体験は理解しがたいのだろう。
「正面がだめなら裏口を探す。商人は最初の『いいえ』で諦めたりしません」
「ならば、なぜすぐに別の手を——」
「いえ、収穫はありました」
回廊を歩きながら、声を落とす。
「あの神官長は、ただ前例がないから断ったんじゃない。何かを隠しています。あるいは——誰かの圧力を受けている」
「根拠は」
「銀三十シェケルと言ったとき、目が揺れました。あの金額は神殿にとって小さくない。それでも断った。断らざるを得なかった。自分の意志だけなら、少なくとも交渉の余地を残すのが普通です」
アナトが黙った。商人の観察眼を論理で否定する材料がなかったからだろう。あるいは、力で壁を壊す以外の「攻め方」があることに、少しだけ興味を持ったのかもしれない。
神殿を出ようとしたとき、アシュタルの視界の端に動きがあった。
下級神官だった。若い。二十歳前後に見える。祭祀用の白衣を着ているが、生地が薄く、袖口がほつれている。下級の中でもさらに下の者だ。
目が合った。
一瞬のことだった。若い神官はすぐに視線を逸らし、足早に回廊の奥へ消えていった。だが、その一瞬で十分だった。あの目——助けを求める色。いや、もっと切迫した何か。怯えと、それでも何かにすがりたいという必死さが入り混じった目。
商人は困っている者の顔を見逃さない。困っている者は、取引相手になりうる。父がよく言っていた。「門を叩いて開かないなら、門番の困りごとを訊け」と。
「少し、予定を変更します」
アナトが怪訝な顔をした。
「何を見つけた」
「裏口の候補を」
宿に戻り、帳面を開いた。今日の成果を書き込んでいく。
——神殿深部:正面突破不可。神官長に圧力あり(要調査)。裏口候補:下級神官(若い、目に切迫した色あり)。次の手:接触。場所は神殿の外で。
アナトが背後から帳面を覗き込んだ。
「回りくどい」
「迂回路は商人の得意分野です」
そう言って、筆を置いた。正面がだめなら、裏口にはいくらの値がつくか。それを見極めるのが、次の仕事だった。




