粘土板の行方
第20話 粘土板の行方
夜の屋上で、二人は向かい合っていた。
アシュタルが帳面を膝の上に広げ、葦筆を構える。アナトは屋上の低い壁に腰を下ろし、夜空を背にしている。風が穏やかな夜だった。嵐の気配はない。嵐の神がいないのだから、当然かもしれない。
「調査を始める前に、背景を知りたい。バアルとモトの戦い——何があったのか、詳しく教えてください」
アナトは少し間を置いた。
答えを渋っているわけではなさそうだった。どこから語るかを選んでいる。千年単位の歴史を人間に説明するための言葉を、探しているのだ。
「バアルは嵐の神だ。天候を司り、雨を降らせ、大地に実りをもたらす。人間どもが畑を耕し、収穫を得られるのは、バアルが空を支配しているからだ」
語り口は簡潔だった。感情を削ぎ落とした、報告のような声。
「モトは死の神。冥界を支配し、全ての命が最後に行き着く場所を司る。バアルの力が『生』なら、モトの力は『死』だ。この二柱は世界の均衡そのものだった」
アシュタルは書き留めながら聞いた。嵐と死。生と終わり。商人的に言えば、入荷と出荷のようなものか。どちらが止まっても商売は回らない。
「二柱が争った。理由は——」
アナトが一瞬、言葉を切った。
「理由は複雑だ。だが突き詰めれば、支配権の問題だ。バアルは嵐の王座を得て、自らの宮殿をツァフォン山に建てた。モトはそれを認めなかった。死の前には嵐すら無力だと」
「モトがバアルに挑んだ?」
「モトがバアルを冥界に招いた。宴という名目で。バアルは——応じた」
その一言に、微かな苦みがあった。兄の判断を語る妹の声。応じるべきではなかったと、千年越しに思っている声。
「止めなかったのですか」
「止めた。聞かなかった。あの愚かな兄は——」
アナトは言葉を切り、唇を引き結んだ。「愚かな兄」という言葉の響きに、怒りと愛情が同じ分量で混じっていた。
「冥界で何が起きたのかは、私も全てを知っているわけではない。だが結果は明らかだ。バアルは敗れた。冥界に落ちた。それ以来、嵐は弱まり、大地は乾き、雨季が短くなった」
アシュタルは書く手を止めた。
「あなたは——取り戻しに行ったんですよね」
「行った」
短い一語。
「モトを打った。鎌で刈り、火で焼き、臼で挽いた」
凄絶な言葉が、淡々と語られた。まるで市場で買い物の中身を列挙するように。
「それでもバアルは戻らなかった」
アシュタルの筆が止まった。
鎌で刈り、火で焼き、臼で挽いた。死の神にそこまでして、それでも取り戻せなかった。力では足りなかった。カナアン最強の戦女神の武力でも。
「その後、エルが動いた。裁定を下した。その内容が粘土板に刻まれて、バアル神殿の深部に封じられた。——それ以上は、私も知らない」
アナトの語りはそこで終わった。
アシュタルは帳面を見下ろし、情報を整理した。商人の頭が動く。感情を脇に置いて、実務に集中する。
「粘土板は、バアル神殿のどこに?」
「深部だ。地下に聖域がある。神官長の管轄下にある区画だ。通常の神官でも立ち入れない」
「正面からでは入れない、と」
「私なら壁を壊して入れる」
「それはやめましょう」
アシュタルは即座に否定した。アナトが眉をひそめる。
「なぜだ。早い」
「早いですが、後が続かない。神殿を破壊すれば、ウガル中が騒ぎになる。粘土板を手に入れても、その後の調査が不可能になる。一回の取引で全てを得ようとするのは悪手です」
「ならばどうする」
「交渉で入ります」
アナトが露骨に怪訝な顔をした。
「バアル神殿の聖域に、交渉で入ると?」
「直接は無理でしょう。だから段階を踏みます」
アシュタルは帳面の新しいページを開いた。
「まず、神殿の構造を知る必要がある。出入り口、通路、警備の配置。それから神官長の人物像。どんな人間で、何を欲しがっていて、何を恐れているか。寄進の記録を調べれば、神殿の経済状況も分かる。金に困っていれば交渉の余地がある」
「……まどろっこしい」
「まどろっこしいのが商人のやり方です」
アナトは苛立たしげに腕を組んだ。しかし——口を出さなかった。
仮契約を結んだ以上、アシュタルのやり方に任せると決めた。その判断を翻さない。それは、彼女なりの誠実さなのだろう。力で解決できる問題を、力を使わずに待つ。戦争の女神にとって、それがどれほど不自然な選択か、アシュタルには分かっていた。
「商人ネットワークを使います。ウガルの港には各地の出入り業者が来る。神殿に納品している業者がいれば、内部の情報が取れる。神殿関係者の人間関係、出入りの頻度、警備の隙。全て、帳簿と商談の中にある」
「お前は、全てを取引で解決しようとするのだな」
「他に手札がありませんから」
アシュタルは笑った。自嘲ではなく、事実を述べる商人の微笑みで。
計画の骨子がまとまった。
アシュタルは帳面に書き込んだ。
『調査対象:バアル神殿深部。目的:エルの裁定の粘土板。必要な情報:神殿構造図、神官長の人物情報、警備体制、出入り業者リスト。予算:銀三十シェケルまで許容。期限:次の新月まで』
横から覗き込んだアナトが、呆れたような声を出した。
「……お前は、神殿に忍び込むにも帳簿をつけるのか」
「経費管理は商人の基本です」
「銀三十シェケルとは何だ」
「調査にかかる費用の上限です。情報を買うにも金がかかる。湯水のように使えば商会が傾く。どんな冒険にも予算がある」
アナトは何か言いかけて、やめた。代わりに小さく息を吐いた。それは呆れの溜息か、それとも——かすかな笑いだったのか。暗くて表情は読めなかった。
「好きにしろ」
彼女はそう言って立ち上がり、屋上の縁に歩いていった。夜空を見上げ、そのまま黙った。
アシュタルは帳面を閉じた。
計画はある。手順もある。予算もある。足りないのは——確実に成功するという保証だけだ。
だがそれは、どんな商談でも同じことだ。
確実な商売など、この世にはない。あるのは、準備の差だけだ。
屋上の向こうで、アナトが夜空を見上げている。赤い髪が星明かりの下で暗い紫に見えた。彼女はバアルとツァフォンの頂から嵐を見下ろしたと言った。今は廃れた神殿と、人間の家の屋上を渡り歩いている。最強の戦女神が。
不思議な光景だった。
だが不思議を不思議のままにしておくのは商人の流儀ではない。全ての不思議には理由がある。理由が分かれば値段がつく。値段がつけば取引ができる。
明日から、ウガルの港で情報を集める。神殿への道を、商人の方法で——一つずつ、帳簿の行を埋めるように。




