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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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神の常識

第19話 神の常識


 アナトを人間社会に紛れ込ませるのは、想像以上に骨が折れた。

 まず服装の問題があった。戦装束は目立ちすぎる。革と布の軽装とはいえ、両腕に刻まれた赤い紋様が常人の目にも異質に映る。アシュタルは市場で長袖の外套と女戦士風の革鎧を調達し、アナトに着替えるよう頼んだ。

「旅商人の護衛として雇った女戦士、ということにします」

「私が人間の護衛だと?」

「身分を偽ると言ってるんじゃありません。役割を定義しているんです。神が人間の街をうろついていたら騒ぎになる。あなただって面倒でしょう」

 アナトは不快そうに鼻を鳴らしたが、渋々と外套を羽織った。紋様は袖の下に隠れた。赤い長髪は高い位置で結い直し、布で包む。

 それでも目立つものは目立つ。長身で引き締まった体躯、褐色の肌に金色の瞳。人間の女戦士として見ても、異様な存在感がある。

「あまり人を見下すように歩かないでください。護衛っぽくないので」

「私は全てを見下ろしている。背が高いからだ」

 反論の余地がなかった。事実だった。


 ウガルの市場は朝から喧騒に包まれていた。

 港湾都市の商業区画は狭い路地の両側に店がひしめき、天幕の下で商人たちが声を張り上げている。香辛料、染料、穀物、布地、金属器。地中海の各港から運ばれた品々が所狭しと並ぶ。

 アナトは周囲を見回していた。戦場を観察するような目つきで。

「なぜあの二人は同じ品物を持って怒鳴り合っている」

「値段交渉です。売り手が高く売りたくて、買い手が安く買いたい」

「なぜ言い値で買わない。欲しいなら対価を払えばいいだろう」

「それは商売ではありません。交渉があるから値段が決まるんです」

 アナトは理解しがたいという顔で市場を見渡した。神の世界には値段交渉がないらしい。考えてみれば当然だ。神は欲しいものがあれば力で手に入れるか、命じて持ってこさせるか、そのどちらかだ。

 果物売りの前を通りかかったとき、小さな子供がアナトの外套の裾を引いた。

「お姉ちゃん、無花果ちょうだい」

 アナトが固まった。

 文字通り、彫像のように動かなくなった。金色の瞳が子供を見下ろしている。子供は屈託のない笑顔で手を伸ばしている。その笑顔と、戦争の女神の無表情が、あまりにも釣り合わない。

「すまない、この人は果物を持っていないんだ」

 アシュタルが間に入って子供の頭を撫で、果物売りから無花果を一つ買って渡した。子供は歓声を上げて走り去った。

「……人間の幼体は、見知らぬ者に物をねだるのか」

「子供はそういうものです。怖いものを知らない」

「愚かだな」

「そうですね。でも、嫌いじゃないでしょう?」

 アナトは答えなかった。ただ、子供が走り去った方向を一瞬だけ見ていた。


 夕刻、アシュタルの家に戻った。

 母が食卓に人数分より一つ多い席を用意していた。客人用の敷物まで敷いてある。

「アナトさん、どうぞ座ってくださいね」

 母は初対面の女戦士にも、いつもと変わらない笑顔を向けた。この人はそういう人だ。門を叩く者は誰であれ食卓に招く。それがベン=シャハル家の流儀だった。

「神は食わん」

 アナトが素っ気なく言った。アシュタルが慌てて補足する。

「護衛の仕事で疲れているんです。少食なだけで——」

 だがヤリムが粘土板に文字を刻み、アナトの前に差し出した。


『食べないの? もったいないよ』


 声のない少年の、素朴な言葉。

 アナトがそれを読んだ。一瞬、金色の瞳が揺れた。揺れ——というほど大きくはない。水面にごく小さな石を落としたときの、最初の一波のような。

 アナトは何も言わずにパンを一切れ取り、ちぎって口に運んだ。

 母が嬉しそうに微笑んだ。ヤリムが声の出ない口で笑った。

 アシュタルは黙って見ていた。商人の目が記録する——戦争の女神が、十四歳の少年の筆談に折れた。この情報は帳面には書かない。書くべきものではなかった。


 夜、屋上に上がると星空が広がっていた。

 ウガルの夜は暗い。月のない夜には、天の川が砂漠の果てまで架かる。アナトが屋上の縁に立ち、夜空を見上げていた。赤い髪が夜風に揺れている。

「眠らないんですか」

 アシュタルが声をかけると、アナトは振り返らずに答えた。

「神に眠りは要らん」

「便利ですね」

「お前は眠れ。人間は脆い。休まなければ壊れる」

「ご心配いただけるとは」

「契約者が壊れたら不都合だと言っている」

 その台詞は予想通りだった。アシュタルは屋上の壁に背を預けて座り込んだ。もう少しだけ、夜風に当たりたかった。

 しばらく沈黙が流れた後、アナトが口を開いた。

「この街の人間は、なぜ毎日同じ場所で飯を食う」

「え?」

「同じ家、同じ卓、同じ皿。毎日。飽きないのか」

 アシュタルは少し考えた。

「家族だからですよ」

「家族」

 アナトがその言葉を繰り返した。噛みしめるように。舌の上で転がすように。初めて口にする異国の言葉のように。

「家族だから、同じ食卓に集まるんです。味は関係ない。場所も関係ない。顔を合わせることに意味がある。少なくとも、うちではそうです」

 アナトは答えなかった。

 夜風が吹いた。砂の匂いを運ぶ、乾いた風。

「……バアルとは、よく二人で山に登った」

 ぽつりと落ちた言葉は、独り言に近かった。

「ツァフォンの頂で、嵐を見下ろした。あれが私の——」

 途中で途切れた。アナトは口を閉じ、屋上の縁から降りた。

「寝ろ、人間。明日は忙しい」

 背中を見せて階下へ消えていく。

 アシュタルはその背中を見送りながら考えた。

 この女神は、「家族」を知らない。毎日同じ食卓に集まるという、当たり前の習慣すら知らない。バアルが彼女にとっての唯一の繋がりなのだとしたら——バアルを探す動機は、契約の文面に書かれた以上のものがある。

 商人にとって、取引相手の本当の動機を知ることは重要だ。

 提示された条件の裏にある、言葉にされない欲求。それを読み違えたら、取引は必ず破綻する。

 アシュタルは星空を見上げた。戦争の女神が途中で飲み込んだ言葉の先を、勝手に想像した。


 ——あれが私の、家族だった。


 違うかもしれない。だが商人の勘は、たいてい当たる。


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