仮契約
第18話 仮契約
翌日、アシュタルは再び廃神殿を訪ねた。
今度は帳面だけでなく、未使用の粘土板と葦筆を革袋に入れて持参した。書記の工房で質のいいものを選んだ。銀半シェケル。契約書に使う粘土板をケチる商人は二流だ。
アナトは昨日と同じ場所にいた。壁に寄りかかり、腕を組んでいる。同じ姿勢、同じ表情。神というのは待ち方にも変化がない。
「今日は何の用だ」
「仮契約を結びに来ました」
「仮契約」
アナトの声に、かすかな困惑が混じった。それは珍しいことだった。
アシュタルは崩れた祭壇の平らな面に帳面を広げた。昨夜、自室で練り上げた条件書だ。
「条件を読み上げます。手短に」
「そうしろ」
アナトが祭壇の反対側に立った。腕を組んだまま。これが彼女の「聞く姿勢」なのだろう。
「まず、僕の側の提供物。一つ、印の手がかり——粘土板の調査に全面的に協力します。バアル神殿への侵入経路の策定、情報収集、必要な根回し。二つ、商人ネットワークを使った情報収集。ウガルの港には各地の商人が出入りする。神殿関係者の動向、出入り業者の情報、寄進の記録。僕の商会の伝手で集められるものは全て集めます」
アナトは黙って聞いていた。表情は変わらない。だが聞いている。腕を組んだまま、微動だにせず、一言一句を拾っている。戦場で敵の動きを読むように。
「次に、あなたの側の提供物」
「私に条件をつけるのか」
「取引ですから」
アシュタルは視線を逸らさなかった。金色の瞳が鋭く光ったが、商人の目も退かなかった。
「一つ、一族への保護。症状が悪化した場合の対処。あなたが直接治せなくても、手立てを知っているなら教えてほしい。二つ、粘土板に関する知識の共有。あなたが知っていることを、必要に応じて開示してください。もちろん、段階的で構いません」
「それだけか」
その声音には、拍子抜けしたような響きがあった。もっと無茶な要求が来ると構えていたのかもしれない。
「それだけです。本契約は、バアルの居場所が判明してから改めて詰めましょう。今はまだ情報が足りない。だから仮契約です」
アナトが首を傾げた。
「お前たち人間は、なぜ取引を細切れにする。誓うか誓わないか、二つに一つでいいだろう」
「それは神のやり方です」
「当然だ」
「商人のやり方は違います。大きな約束をいきなり結ぶのは危険だ。互いをよく知らないまま全てを賭けるのは、投機であって商売ではない。段階を踏んで、一つずつ確かめる。まどろっこしいかもしれませんが」
「まどろっこしい」
アナトが吐き捨てるように言った。だがその直後、小さく——本当に小さく——唇の端が動いた。
「だが——合理的ではある」
アシュタルは革袋から粘土板と葦筆を取り出した。
「もう一つお願いがあります。口頭ではなく、文書で契約を残したい」
アナトの目が見開かれた。今度こそ、明確な驚きだった。
「神の言葉を疑うのか」
「疑っているのではありません。言葉は風に消えます。文字は残る。商人の基本です」
「私は嵐の女神の妹だ。嵐すら残る」
「嵐は残りますが、嵐の中で交わした約束は残りません。人間の記憶は短い。だから文字がある」
アナトは数秒の間、アシュタルの顔を見つめていた。それから、鼻を鳴らした。
「好きにしろ」
許可は出た。
アシュタルは粘土板に葦筆を走らせた。楔形文字で条件を一つずつ刻んでいく。文字を刻む音が、静かな廃神殿に響いた。廃れた聖域で、人間が神との契約を文字に起こしている。書記が見たら腰を抜かすだろう。
刻みながら、アシュタルは言葉を選んだ。曖昧な表現は避ける。「協力する」ではなく「全面的に協力する」。「知識を共有する」ではなく「必要に応じて開示する」。条件の言葉一つで契約の意味は変わる。それは商人が生涯をかけて学ぶ技術だった。
アナトは文字を刻むアシュタルの手元を、じっと見ていた。興味があるのか、それとも監視しているのか。どちらにせよ、神が人間の書く文字を注視している。その事実自体が、異常なほど新鮮だった。
仮契約の内容を刻み終え、アシュタルは粘土板をアナトに差し出した。
「内容を確認してください」
アナトが粘土板を受け取った。金色の瞳が文字の上を滑る。その読む速度の速さは、神がこの世界の文字を熟知している証だった。
「……不足はない」
「では、双方の名を刻んで成立とします」
アシュタルが自分の名を刻んだ。葦筆をアナトに渡す。
一瞬の間があった。
アナトが葦筆を受け取り、粘土板に自分の名を刻んだ。その一画一画が、人間の文字より深く、粘土の奥まで食い込んだ。神の力が無意識に籠もったのかもしれない。
「これで仮契約は成立です」
アシュタルは粘土板を両手で持ち上げた。焼き固める前の柔らかい粘土に、人間の楔形文字と神の楔形文字が並んでいる。同じ文字体系だが、筆圧が違う。人間の文字は浅く繊細で、神の文字は深く力強い。その二つが一枚の粘土板に共存している。
人間と神が対等な条件で交わした契約書。前例はあるのだろうか。たぶん、ない。
「アナト」
名前を呼んだ。「アナト様」ではなく。敬称なしの、取引相手に対する呼び方で。
アナトの目が細くなった。不快か、それとも別の何かか。読み取れなかった。
だが、修正はされなかった。
「よろしくお願いします」
「……ふん」
それが彼女の返事だった。商人なら「こちらこそ」と返すところだが、戦争の女神にそれを求めるのは酷だろう。「ふん」で十分だ。少なくとも「口を慎め」とは言われなかった。
アナトが壁際に戻り、再び腕を組んだ。アシュタルは粘土板を丁寧に革袋にしまった。乾く前に傷つけてはならない。この粘土板は、乾燥して固まれば、契約の証になる。人間の契約書と同じだ。ただし署名の一方が、神であるという点を除けば。
廃神殿を出て、一人になった。
粘土板を帳面と一緒に革袋にしまいながら、アシュタルは考えた。
人間が神と契約を結んだ。対等な条件で。文書を交わして。
これは前例のないことなのだろうか。それとも、遥か昔には当たり前だったのだろうか。エルの粘土板には、そういうことも書いてあるのだろうか。
胸の印が、かすかに疼いた。
布の上から右手首を押さえる。銀色の円環紋様が、ほんの一瞬だけ温かくなった気がした。
——気のせいか。
だが帳面に書き留めておく。
『仮契約成立。場所:廃神殿。日付:アヴの月の十三日。備考:契約締結時、右手首の印にかすかな疼きあり。原因不明。要経過観察』
商人は、些細な変化も見落とさない。




