譲歩の技術
第17話 譲歩の技術
廃神殿は、ウガルの東門から砂丘を二つ越えた先にあった。
かつてどの神を祀っていたのかさえ忘れられた小さな聖域で、石壁は砂に半ば埋もれ、天井は崩れて空が覗いている。人間はもう近づかない。だからこそ、神が一柱、身を隠すには都合がよかった。
アシュタルは入口の前で足を止め、深く息を吸った。吐いた。商人の顔を作る。不安も恐怖も帳面の裏に押し込んで、取引相手の前に立つための顔を。
中に入ると、崩れた祭壇の横の壁にアナトが背を預けていた。腕を組み、金色の瞳が暗がりの中で淡く光っている。
待っていた——とは言わない。言うはずがない。ただ、アシュタルが姿を現した瞬間、彼女の視線がまっすぐこちらを射抜いたことが、全てを物語っていた。
「来たか」
短い一言。前回の「来るとは思わなかった」から二語減っている。商人はそういう差を聞き逃さない。
「来ました」
アシュタルは崩れた柱の残骸に腰を下ろし、帳面を膝に広げた。ここが商談の席になる。石の椅子は固いが、港の倉庫で交渉するよりはましだ。たぶん。少なくとも港の倉庫では、交渉相手に殺される心配はない。
廃神殿の内部は薄暗く、崩れた天井から差し込む日光が埃の柱を作っている。かつて神像が置かれていたであろう台座は空で、祭壇の石は罅が走っている。忘れられた神の住まい。皮肉な場所で、別の神との交渉を始めようとしている。
「前回の三条件、修正案を持ってきました」
「修正案」
アナトが眉をひそめた。その表情は、値切りにきた客を見る商人のそれに似ていなくもなかった。もっとも、アナトにとっては「人間が神に条件を修正して再提出する」こと自体が前代未聞なのだろうが。
「第一条件を変えます」
アシュタルは帳面から目を上げた。
「印の解法の完全開示——は、撤回します」
アナトの金色の目が僅かに見開かれた。撤回という言葉が意外だったのか、それとも人間が先に引いたことが意外だったのか。
「代わりに、こう提案します。まず手がかりを一つだけ渡してほしい。印について何か知っていることを一つ。それで信用を積み上げましょう」
「信用を積み上げる」
「ええ。商人の世界では、大口の取引をいきなり成立させることは稀です。まず小さな取引をして、互いの信用を確かめる。見本を見せてから本取引に入る。あなたが全てを明かす必要はない。まず一つ。それだけで十分です」
アナトは壁から背を離し、アシュタルの前に立った。見下ろす視線。神の視線。だがその奥に、計算のようなものが動いていた。
「人間の商いの作法など、どうでもいい」
「どうでもよくても、合理的でしょう? あなたにとってリスクは最小限だ。情報を一つ渡すだけで、僕が本気かどうかを確認できる。安い買い物ですよ」
沈黙が落ちた。廃神殿に吹き込む風が、崩れた天井から砂を運んでくる。砂粒が帳面の上に散り、アシュタルは無意識に払った。
アナトは長い間、何かを測るようにアシュタルを見つめていた。人間の商人が神に対して「合理的でしょう」と言い切る。その胆力を値踏みしているのか、あるいはその愚かさを呆れているのか。アシュタルには判別がつかなかった。だが逃げない。ここで目を逸らしたら、商談は終わる。
「——いいだろう」
その三文字は、商談における最初の「はい」だった。アシュタルの背筋に冷たいものが走った。緊張ではなく、手応えだ。
「一つだけ教えてやる」
アナトが祭壇の方に視線を向けた。
「エルが裁定を記した粘土板がある」
「粘土板」
「最高神エルは、全ての裁きを粘土板に刻んだ。バアルとモトの争い、神々の序列、そして——『捧げもの』についての定め。お前の印の意味も、そこに記されているはずだ」
アシュタルの指が帳面の上で止まった。心臓が一つ、強く打った。
印の意味。自分と一族を蝕んでいるこの呪いの正体が、記された粘土板がある。
「その粘土板は、どこに?」
「バアル神殿の深部だ。エルが封じた」
具体的な場所。具体的な手がかり。商人にとって、曖昧な約束より具体的な情報の方が百倍の価値がある。アシュタルは帳面に走り書きした。手が興奮で震えるのを抑えながら。
バアル神殿ならウガルから遠くない。ツァフォン山の麓に建つ壮麗な神殿は、この地方最大の聖域だ。子供の頃、父に連れられて祭礼を見に行ったことがある。あのときは神殿の外壁すら巨大に見えた。深部となれば——相当な準備が必要だ。
「なぜ今まで教えてくれなかったんですか」
問いは自然に口をついた。アナトは一拍の間を置いてから答えた。
「教える義理がなかった」
冷たい声だった。
「今は——取引だ」
信頼ではなく、利害。それで情報が動いた。
アシュタルはそれを正確に受け止めた。信頼は後からでいい。今は取引が成立したことが重要だ。交渉のテーブルに座り、最初の情報が動いた。これは前進だ。確実な前進。
右手首の印が布の下で微かに疼いた気がしたが、ここでは気にしている場合ではなかった。
アナトが背を向けた。会話は終わりだ、と言わんばかりに。
しかし三歩ほど歩いてから、振り返らずに言った。
「一つ教えてやった。だが貸しだ。覚えておけ」
アシュタルは帳面に素早く書き込みながら答えた。
「商人は帳簿をつけます。忘れませんよ」
アナトは鼻を鳴らした。軽蔑とも呆れとも取れる音だったが、殺意はなかった。前回、丘の上で対峙したときに纏っていた圧迫感が、今日は薄い。気のせいではないはずだ。
廃神殿を出ると、空が橙色に染まっていた。砂丘の稜線が夕日に溶けている。帰り道の砂を踏みしめながら、アシュタルは指を折って計算した。アナトと初めて会ってから、これで四度目の接触。最初は一方的に呼び出された。二度目は契約を持ちかけられた。三度目はこちらから条件を提示した。そして今日、初めて情報が動いた。
四回。商談としては順調な方だ。ただし相手は神で、賭けているのは一族の命だ。順調で安心するわけにはいかない。
アシュタルは帳面を見下ろした。走り書きの文字が並んでいる。
『エルの裁定の粘土板。バアル神殿深部。「捧げもの」の定めが記されている。貸し一つ——アナト』
貸し借り。神との間に、初めて共通の言語が生まれた。
それは信頼ではない。だが信頼の入口にはなり得る。
商人は知っている。どんな大商いも、最初の一取引から始まるのだと。




