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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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弟の声

第16話 弟の声


 朝の食卓に、パンを焼く匂いが漂っていた。

 もっとも、アシュタルにはそれが分からない。味覚が消えて以来、匂いの感じ方も鈍くなった気がする。気がする、というのは厄介な話で、失いかけているものの輪郭は、失い終わるまでぼやけたままなのだ。

 母が竈から焼きたてのパンを取り出し、欠けた皿に並べた。オリーブの油を小壺から注ぎ、干した無花果を添える。いつもと変わらない朝食。変わらないように見せている朝食。

 テーブルの向こうで、ヤリムが口を開いた。


「あ——」


 かすれた音が漏れた。それだけだった。

 弟は咳き込み、喉を押さえ、もう一度口を動かした。しかし声は出ない。唇が震え、琥珀色の目に薄い膜が張った。十四歳の少年は悔しそうに拳を握り、視線を落とした。

 母の手が一瞬だけ止まった。パンを持ったまま、微笑みを貼りつけたまま、ほんの一拍。それからいつもの声で「さあ食べなさい」と言った。その声の明るさが、かえって食卓の空気を重くした。

 父タグムがオリーブ油の小壺を取ろうとして、指が滑った。壺が傾き、油が卓上にこぼれる。

「すまん」

 父は笑って拭いたが、アシュタルは見ていた。指先が壺の形を正しく捉えられていない。触覚の鈍化。父にも症状が進んでいる。

 ヤリムが卓の端に置いてあった粘土板の欠片を取り上げ、尖った葦の先で文字を刻んだ。


『パン、おいしい?』


 母に向けた言葉だった。母は一瞬だけ目を伏せてから、満面の笑みで頷いた。

「ええ、とてもおいしいわ。ヤリムもたくさん食べなさいね」

 ヤリムが頷く。声の代わりに粘土板を抱えて、もう片方の手でパンをちぎる。油に浸して口に運ぶ仕草は食欲のある少年そのもので、だからこそアシュタルの胸が軋んだ。

 味覚を失ったのはヤリムが先だった。それでも食べている。味のしないパンを、家族と同じ食卓で、おいしそうに。

 アシュタルも自分の皿に手を伸ばした。パンをちぎり、油に浸し、口に運ぶ。何の味もしない。小麦の香ばしさも、オリーブの苦みも、とうに消えている。ただ「食べるという動作」だけが残っている。食卓を囲む意味は味ではないと、弟が身をもって教えてくれている。

 食事が終わり、母が食器を片づけ始めた。ヤリムが粘土板に何か書いて母に見せた。母が笑う。父が不器用な手つきで皿を重ねる。印を持たない母だけが正常で、その正常さが——異常をくっきりと浮かび上がらせていた。母の手は震えていない。母の声は掠れていない。母の味覚は失われていない。だからこそ、家族の崩壊を一人だけ「正しく」知覚している。それがどれほど残酷なことか、アシュタルには分かっていた。


 食事の後、アシュタルは自室に戻り、帳面を広げた。

 商人は記録する。どんな不都合な真実も、帳簿に書き留めることで輪郭を持たせる。輪郭があれば対処できる。少なくとも、そう信じることで正気を保てる。


『症状進行記録——ベン=シャハル家』


 弟ヤリム。味覚喪失から十日で声のかすれが始まった。三日前から完全に失声。筆談に移行。食欲は維持。睡眠は浅い。

 父タグム。触覚の鈍化が進行中。指先の感覚が曖昧になりつつある。商談で帳簿をめくる手つきに支障。痛覚は残存。

 母。印を持たないため症状なし。

 自分。味覚がほぼ完全に消失。嗅覚にも鈍化の兆候。睡眠は三日に一度程度まで減少。次に失うものは——

 筆が止まった。

 次に失うものは何か。声か。触覚か。それとも、もっと別の何か。

 帳面に書けば管理できるはずだった。数字と事実を並べれば、恐怖にも値段がつけられるはずだった。だが手が動かない。

 弟の声が消えた。あの、兄の帰りを誰より大きな声で迎えてくれた弟の声が。市場で値切り交渉をやりたいと目を輝かせていた弟の声が。「兄ちゃん、俺も商人になれるかな」と聞いてきた、あの声が。

 感覚の喪失には個人差がある。味覚から始まる者、睡眠から崩れる者、触覚が先に消える者。共通しているのは、止まらないということだけだ。そして最終的にどうなるのか——「生ける死人」。生きているが、何も感じない。何も味わわない。何も聞こえない。ただ肉体だけが動き続ける。

 その未来を、帳面の数字が冷淡に予告していた。

 アシュタルは帳面を閉じた。

 それから、開いた。

 商人は帳簿を閉じてはいけない。閉じたら、そこで計算が止まる。恐怖は経費だ。払えるうちは払う。


 決めた。

 アナトの元へ戻る。

 前回の交渉は決裂した。三つの条件を突きつけ、アナトは「もう一度来い。答えてやる」とだけ言い残して消えた。あれから日が経ち、症状は進行した。もう猶予がない。

 ただし、全面降伏するつもりはなかった。

 三条件をそのまま突きつけても蹴られるだけだ。ならば修正する。条件の骨格は残したまま、相手が呑みやすい形に組み直す。第一条件の「印の解法の完全開示」は要求が重すぎた。段階を刻む。まず手がかりを一つ。それで信用を積み上げる。

 商人の譲歩は撤退ではない。次の手を打つための布石だ。

 ——そう自分に言い聞かせて、帳面に修正案を書き始めた。手はまだ少し震えていたが、文字は崩れなかった。

 第二条件「一族の安全保障」と第三条件「帰還の期限」はそのまま残す。この二つは譲れない。家族を守ること、必ず帰ること。この二つを手放したら、商人として以前に、人間として終わる。

 修正案を書き終えたのは、昼を過ぎた頃だった。窓の外では港の方から船の汽笛が聞こえる。日常の音。日常が壊れかけていることを知らない街の音。


 家を出たのは、日が傾き始めた頃だった。

 門口で靴を履いていると、背後で気配がした。振り返ると、ヤリムが廊下に立っていた。

 弟は何か言おうとしていた。口を開け、喉を震わせ、声を絞り出そうとしていた。だが音はない。

 アシュタルは待った。

 ヤリムが諦めたように息を吐き、それでも口を動かした。声はない。ただ唇の形だけが言葉を刻んだ。

 読めた。商人の目利きは、声がなくても言葉を拾う。


 ——行ってらっしゃい。


 アシュタルは笑った。いつもの、商人の息子の、人懐っこい笑顔で。

「行ってくる」

 声のない弟に、声のある自分が応えた。その不均衡が、胸を灼いた。

 背を向けて歩き出す。振り返らなかった。振り返ったら、帳面の修正案がにじんでしまいそうだったから。


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