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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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実験台

 折れた嵐が、ゆっくりと形を取り戻しかけていた。


 バアルを神殿の奥に運んだ。神官たちが駆けつけ、嵐神を寝台に横たえた。紋様は消えたままだったが、呼吸は安定している。神は死なない。だが——限りなく近い状態にはなれる。


 アシュタルは神殿の柱にもたれ、手首の印を見つめていた。


 架け橋の器。


 モトの言葉を反芻する。「あなたの印は、私の力もバアルの力も通す。両方を——媒介する」


 媒介。


 商人にとって馴染み深い概念だ。仲買人。ブローカー。売り手と買い手の間に立ち、双方を繋ぐ存在。アシュタル自身が——その仲買人なのか。


 バアルの力とモトの力の双方を通す。それは——双方向の契約の、物理的な媒介ではないのか。


 エルの言葉が蘇った。「双方向の契約。お前がそれを形にできるかどうかは、お前次第だ」


 形にする。文字通り。アシュタルの身体が——契約の器になる。


 ぞっとした。


 神力の媒介。それは——人間の身体に神の力を通すということだ。水路に水を通すように。電線に雷を通すように。身体が——通路になる。


 通路は——消耗する。水路は浸食され、電線は熱を持つ。通す力が大きければ——通路が壊れる。


 代価。エルが曖昧にした「代価」とは——これか。


 アシュタルの身体そのものが、代価になる。


 帳面を開こうとしたが、手が震えて開けなかった。


「……若旦那」


 ハダルの声がした。いつの間にか神殿に来ていた。


「大丈夫ですか。顔色が——」


「大丈夫だ。水をくれ」


 水を受け取り、一口飲んだ。冷たい水が喉を通り、少しだけ震えが収まった。


「街の被害は」


「北側の市場通りが半壊です。建物が三棟倒壊。怪我人は多数ですが、死者は出ていません。——奇跡的に」


「奇跡じゃない。モトが手加減していた」


「手加減?」


「人間を全滅させるつもりはないと——あいつは言っていた。本当にそうだったらしい」


 ハダルが困惑した顔をした。商人の番頭にとって、神の戦いは理解の範疇を超えている。だが被害の数字は——分かる。


「復旧にかかる費用は」


「ざっと見積もって銀三千シェケルです。商人組合と相談しないと——」


「やってくれ。——俺はもう少し、ここにいる」


 ハダルが頷いて去った。


 一人になった。バアルの寝台の近くに座り、壁にもたれた。


 モトが退いた。殺されなかった。殺されなかったのは——「殺せなかった」からではない。モトにはアシュタルを殺す力が十分にある。


 殺さなかった理由。


「少し、考えたいことができました」


 モトの言葉。考えたいこととは何だ。架け橋の器。その存在を確認したことで、モトの計算に新しい変数が加わった。


 モトは計算する神だ。千年単位で策を組み立てる知性。新しい変数が加われば——計算をやり直す。計算が終わるまで、手は出さない。


 つまり——猶予ができた。


 どれだけの猶予か。一日か。三日か。一週間か。


 分からない。だが——時間ができた。


 バアルが寝台で身じろぎした。


「……アシュタル」


「起きたか」


「……俺は、負けたのか」


「負けてない。引き分けだ」


「嘘をつくな」


「嘘じゃない。モトが退いた。勝ちではないが負けでもない。——少なくとも、今日のところは」


 バアルが天井を見つめた。嵐のない瞳。凪いだ海のような青い目が、虚空を見ていた。


「架け橋の器と——モトが言ったな。聞こえた」


「ああ」


「お前の印が——俺の力とモトの力を、両方通す。そう言ったな」


「ああ」


「……それは」


 バアルが言葉を探していた。嵐の神は言葉が得意ではない。力で語る者は、言葉で語ることに慣れていない。


「お前が——間に立てる、ということか」


「たぶん」


「たぶん、ではなく」


「分からないんだ。架け橋の器が何を意味するか、まだ俺には分かっていない。モトは知っているようだったが、教えなかった。エルも——全ては話さなかった」


「エルか」


 バアルの声に苦味が混じった。


「あの方はいつもそうだ。全てを知っていて、全てを仕組んで、だが——全ては話さない」


「ああ。商人としては——情報を出し惜しむ取引先が一番厄介だ」


 バアルが微かに笑った。痛みに歪んだ笑い。


「休め。体を戻せ」


「……ああ」


 バアルが目を閉じた。


 アシュタルは神殿の柱にもたれたまま、手首の印を見つめた。銀色の円環紋様。普段は静かに肌に馴染んでいる模様が——今は微かに温かかった。


 架け橋の器。


 この身体が——神と神を繋ぐ器。


 その意味を、まだ完全には理解できていない。だが——重要なことは分かった。


 この印があるから、モトは退いた。この印があるから、バアルの力とモトの力の間に立てた。


 商人の武器は口と頭だと思っていた。だがもう一つ——この身体そのものが、武器になるらしい。


 いや、武器ではない。


 通貨だ。


 神と神の取引を成立させる——通貨。


 その認識が正しいかどうかは、まだ分からない。だが——感触はある。


 帳面を開いた。今度は手が震えなかった。


「架け橋の器:神力の媒介機能。バアルとモトの力を双方向に通す。代価は——身体の消耗? 要検証」


 書き終えて、帳面を閉じた。


 疲れていた。だが——眠れなかった。頭の中で、モトの言葉と印の感触が、ぐるぐると回り続けていた。


 神殿の天井を見つめた。石の天井に蝋燭の光が揺れている。ひびが走っている。戦闘の余波で建物が傷んでいる。


 バアルの寝息が聞こえた。嵐神が人間のように眠っている。力を失うということは、人間に近づくということなのかもしれない。眠り、疲れ、傷つく。


 アシュタルは自分の手首を見つめた。印の光は消えている。だが——温かさが残っている。モトの力を弾いた時の、あの不思議な感触。冷たくもなく熱くもない、中立の温度。


 架け橋。


 二つの力の間に立つ橋。生と死の間に架かる橋。


 橋は——両岸を繋ぐ。だが橋自身は、どちらの岸にも属さない。


 人間は——生と死の間にいる。生きているが、いつか死ぬ。生にも死にも属し、どちらにも属さない。


 だから人間が橋になれるのかもしれない。


 仮説だ。まだ仮説に過ぎない。だが——感触がある。正しい方向に向かっている感触が。


 眠れない夜が続いた。だがその夜は——無駄ではなかった。


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