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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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神の在り方の変革

 バアルが膝をつく。嵐の神が——折れかけている。


 紋様の光が消えた右腕を、バアルは石畳に突いていた。槍は手から離れ、数歩先に転がっている。嵐が止んだ空は異様に静かで、モトの冷気だけが地面を這っていた。


 バアルの髪に白が混じっていた。帰還直後に見た時よりも——白い部分が増えている。冥界の後遺症が、戦闘の消耗で一気に表面化したのだ。


 モトが歩み寄っていた。ゆっくりと。急ぐ必要がないことを知っている足取りで。黒衣の裾が霜の降りた石畳を滑り、通った後に枯れた草が灰になった。


「ご立派でした、バアル。——ですが、もう終わりです」


 バアルが顔を上げた。濃い青の瞳に、もう嵐はなかった。凪いだ海のような——諦めではなく、全てを出し切った後の静けさ。


「終わり、か」


「ええ。降伏を」


「断る」


「そうですか。——では」


 モトの手が伸びた。白い指先から、灰色の霧が這い出した。死の力。触れれば——バアルの残った力を全て奪い、冥界に引きずり戻す。


 冥界の冷気がバアルの足元を這い上がっていた。霜がバアルの脛を覆い、膝を覆い、腰に達しようとしている。モトの力が、倒れた嵐神を侵食している。


 バアルの髪がさらに白くなっていく。力が——吸い取られている。冥界の後遺症が、モトの力に引き寄せられて加速している。このまま放置すれば、バアルの中の嵐が完全に死ぬ。


 周囲の建物が軋んだ。石壁にひびが入り、屋根瓦が落ちた。神殿の柱にも亀裂が走っている。二柱の衝突の余波が、人間の建造物を蝕んでいる。


 街の向こうから悲鳴が聞こえた。遠くで何かが崩れる音。人間の世界が——壊れ始めている。


 アシュタルの足が動いた。


 考えたわけではなかった。身体が動いた。柱の陰から飛び出し、石畳を蹴り、バアルとモトの間に——走り込んだ。


 走りながら思った。馬鹿だ。商人が神の戦場に走り込むなど、正気の沙汰ではない。祖父が見たら殴られる。父が見たら卒倒する。妹が見たら泣く。


 だが足は止まらなかった。止まれなかった。


 両腕を広げた。


 モトの前に立った。


 冷い。全身が凍りつくような冷気が、至近距離から叩きつけてきた。目の前にモトの顔がある。漆黒の瞳が、アシュタルを見下ろしている。


「おや」


 モトの声は——驚いていなかった。


「アシュタルさん。無謀ですね」


「交渉は終わっていない」


 声が震えていた。膝が笑っていた。全身が冷気に晒されて、感覚が麻痺しかけていた。だが——声を出した。


「交渉は終わっていない。俺はまだ——テーブルについている」


 モトの手が止まった。灰色の霧が——アシュタルの前で、揺らいだ。


 手首の印が光った。


 銀色の円環紋様が、激しく脈動していた。蝋燭の光のように弱かった印が——今、太陽のように輝いている。バアルの力とモトの力の双方に反応し、二つの力の間で共鳴している。


 モトの灰色の霧が——印に触れた瞬間、弾かれた。


 反発。捧げものの印が、モトの死の力を——弾いた。


 モトの目が初めて——見開かれた。


「……なるほど」


 モトの声が低くなった。微笑みが消え、代わりに——分析の目がアシュタルを見ていた。


「架け橋の器か」


 聞いたことのない言葉だった。


「何だ、それは」


「道理でしぶとい。——あなたの印は、私の力もバアルの力も通す。そして通しながら、形を変える。死を殺さず、生を殺さず、両方を——媒介する」


 印の光が脈動していた。温かくも冷たくもない、不思議な感覚が手首から全身に広がっている。


「架け橋の器。エルが仕込んだものですね。——人間の身体に神力の媒介機能を持たせるとは。さすがは最高神」


 モトの声には——侮蔑がなかった。純粋な分析。純粋な理解。そして——わずかな興味。


「それが何を意味するかは——あなたにはまだ分からないでしょう。ですが私には分かります」


「教えろ」


「教える義理はありません。——ですが、一つだけ」


 モトがアシュタルの目を見た。漆黒の瞳が、銀色の印の光を映していた。


「あなたは——面白い。想像以上に」


 背後でバアルが身じろぎした。バアルの力が微かに戻り始めている。モトの攻撃が止まったことで、消耗が回復に転じたのだろう。


 モトがそれに気づいた。


「……今日はここまでにしましょう」


「何?」


「殺すつもりで来たのですが——少し、考えたいことができました」


 モトが一歩退いた。冷気が薄れた。灰色の霧が引いていく。


 アシュタルの膝から力が抜けかけた。だが——立ち続けた。モトが完全に退くまで、この場に立ち続ける。


 モトが振り返った。


「架け橋の器か。道理でしぶとい」


 その言葉に——何か重要な意味がある。


 だがモトは、それ以上何も語らなかった。灰色の霧とともに、死の神は消えた。


 冷気が去った。春の空気が戻ってきた。


 アシュタルの膝が折れた。石畳に崩れ落ち、両手をついた。手首の印の光が——ゆっくりと弱まっていく。


 冷たい石畳が掌に当たった。膝が震えて立てない。歯がカチカチと鳴っている。モトの冷気の残滓がまだ身体に残っているのか、それとも恐怖の余震か。


 やった。やったのか。


 分からない。モトを退けたのか、モトが自ら退いたのか。アシュタルの力で退けたわけではない。印が光り、モトの攻撃を弾き——モトが「架け橋の器」という言葉を口にし、そして退いた。


 モトの「選択」で退いた。アシュタルの力ではない。


 だが——結果として、バアルは助かった。今この瞬間は。


 背後でバアルが立ち上がる気配がした。


「アシュタル……」


「大丈夫だ。……足に来ただけ」


 嘘だった。足だけではない。全身が震えている。冷気の残滓が体中を巡り、歯の根が合わない。


 だが——生きている。


 モトが呟いた言葉が、頭の中でこだましていた。


 架け橋の器。


 この言葉に、何か重要な意味がある。


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