商人の怒り
モトの猶予は、三日だった。
翌朝、冥界からの通信があった。モトの声ではなく、文字だった。祭壇の表面に灰色の文字が浮かび上がり、消えた。
「三日。三日のうちにバアルが降伏しなければ、街ごと冥界に沈める」
三日。
アシュタルは文字が消えた祭壇を見つめた。三日。たった三日で——バアルとモトの戦いに決着をつけなければならない。
いや、決着は無理だ。決着がつくなら昨日ついていた。バアルは負け、モトは勝った。だがモトは——止めを刺さなかった。架け橋の器に興味を持ったから。
興味。
モトがアシュタルに興味を持った。それは——交渉の余地が「まだある」ということだ。
だが三日。三日で何ができる。
帳面を開いた。現状を整理する。
バアルの状態:戦闘不能。神力が大幅に消耗。回復には最低でも一週間。三日では足りない。
モトの要求:バアルの降伏。つまり嵐の力を手放し、冥界の支配下に入ること。バアルが受け入れるはずがない。
アシュタルの手札:架け橋の器。だが使い方が分からない。
アナトの状態:不明。帰還の兆候はあるが確定していない。
ウガルの状態:半壊。北側市場が壊滅。民心はさらに動揺。モト派が勢力を伸ばしている。
三日で——何ができる。
帳面を閉じた。何もできない、と思いかけた。だがそれは——商人の発想ではない。
何もできないのではなく、何をすべきかが分からないだけだ。分からなければ——調べろ。聞け。探せ。
まずはモトの興味の正体を探る。モトは「架け橋の器」に興味を持った。なぜか。何がモトにとって重要なのか。
それを知るためには——モトと話す必要がある。だがモトは「三日」と言った。三日以内に結論を出せ、と。
交渉のテーブルに着く口実が——必要だ。
バアルの神殿を出て、街を歩いた。半壊した北側市場を通り過ぎ、港に向かった。復旧作業が始まっていた。瓦礫を片付ける人足、板を打ちつける大工、怪我人を運ぶ女たち。街は——壊されても、動き続けている。
人間は、しぶとい。
港の波止場に座った。昨日と同じ場所。海を見た。穏やかな海。ヤムの領域。
ヤムが「仲裁する気はないか」と言ったのは——つい数日前だ。あの時は条件が見つからなかった。今も見つかっていない。だが——状況が変わった。
架け橋の器。
モトの興味。
この二つが——新しい変数だ。
帳面に書いた。
「モトが興味を持っているのは、架け橋の器の機能。バアルとモトの力を媒介する能力。——それがモトにとって何を意味するか?」
仮説を立てた。
仮説1:モトは架け橋の器を利用して、バアルの力を吸収したい。——だがそれなら、アシュタルを殺して印を奪えばいい。殺さなかった。ということはこの仮説は違う。
仮説2:モトは架け橋の器を破壊したい。エルの計画を潰すために。——だがそれも、殺せば済む。殺さなかった。
仮説3:モトは架け橋の器を——使いたい。自分のために。何かの目的で、媒介機能を利用したい。
仮説3が——最も可能性が高い。
モトが架け橋の器を「使いたい」と思っている。それは——モトにとっての「旨味」になりうる。
モトがテーブルに着く理由。それは——架け橋の器を使うことで、モトが何かを得られる可能性があるから。
何を得られるのか。
分からない。だが——三日の猶予がある。三日のうちに、その答えを見つける。
立ち上がった。帳面を腰にしまった。
波止場から港を見下ろした。商船が何隻か停泊している。乗組員たちは甲板で不安そうに空を見上げていた。昨日の戦闘の後、港に入ってくる船は減っている。ウガルの危険を聞いた船乗りたちが、寄港を避け始めたのだ。
経済が止まりつつある。商人として、それは痛い。だが今は経済より命だ。
歩きながら考えた。三つの仮説のうち、仮説3が正しいとする。モトは架け橋の器を使いたい。何のために?
死の神が「媒介機能」を求める理由。
モトは冥界の支配者だ。冥界の中では全能に近い力を持つ。だが地上では力が減衰する。冥界と地上は——断絶している。もしその断絶を「媒介」で繋ぐことができれば——
モトは冥界にいながら、地上に影響を及ぼせる。安定的に。持続的に。投影や一時的な顕現ではなく。
それはモトにとって——莫大な利益だ。
だが待て。それはバアルにとっては最悪の事態だ。モトが常時地上に影響を及ぼせるなら、バアルの領域は浸食される。
つまり——仮説3が正しいとしても、単純にモトに架け橋の器を使わせるわけにはいかない。条件が要る。使い方を限定する条件。
契約だ。
架け橋の器の使用条件を、契約で縛る。モトに利益を与えつつ、バアルの損害を最小化する。——それが、仲裁の条件になるのではないか。
まだ仮説だ。検証が必要だ。だが——方向が見えた。
三日。たった三日で——バアルとモトの戦いに決着をつけなければならない。
いや。決着ではない。決着は力でつけるものだ。アシュタルがやるべきは——合意だ。合意は言葉でつけるものだ。
言葉を、探す。
三日以内に。
波止場を離れ、事務所に向かった。帳面に仮説3の詳細を書き留めなければならない。そしてバアルに相談する。架け橋の器を——交渉カードとして使えるかどうか。
足取りは重かった。だが——止まってはいなかった。




