神の老い
交渉は、音で終わった。
バアルの咆哮が空を裂いた時、アシュタルは事務所にいた。窓の外が白く閃光し、一瞬遅れて轟音が建物を揺らした。棚から帳面が落ち、茶碗が転がって割れた。
雷だ。
だが自然の雷ではない。音が違う。空気の震え方が違う。これは——嵐神の咆哮だ。
事務所を飛び出した。
街の北側——バアルの神殿がある方角の空が、異常だった。黒雲が渦を巻き、その中心に稲光が連続して走っている。だが渦の半分は黒ではなく——灰色だった。温度のない灰色。冥界の色。
モトが来た。
走った。石畳の大通りを駆け抜け、神殿に向かった。通りには人がいた。悲鳴を上げて逃げる者、呆然と空を見上げる者、子どもを抱えて走る者。混乱が街を覆い始めていた。
神殿の前庭に着いた時、二つの力がぶつかっていた。
バアルが神殿の屋上に立っていた。右腕から胸にかけての雷の紋様が、激しく発光している。薄かった紋様が——怒りと覚悟で輝いている。全盛期には及ばない。だが確かに、嵐がそこにあった。
嵐神が槍を構えた。稲妻が槍に集まり、白い光が目を灼いた。
対するモトは——神殿の正面に立っていた。
初めて本体を見た。灰白色の長髪。漆黒の瞳。病的なまでに白い肌。長い黒衣。——投影よりもはるかに存在感が濃い。空気が凍りついている。モトの周囲だけ、季節が冬になっていた。地面に霜が降り、草が枯れ、石が白く変色している。
「来たか、バアル」
モトの声は穏やかだった。いつも通りの丁寧語。だが——声が響く範囲の全てが、冷気に覆われた。
「お前が来なければ、俺から行くつもりだった」
バアルの声は雷だった。低く、重く、空気を震わせる声。
アシュタルは神殿の柱の陰に身を隠した。この戦いに、人間が立ち入る隙間はない。力の世界。言葉が通じない世界。
バアルが槍を振った。
雷が落ちた。
文字通りの——雷撃。空から地上へ、一直線に。白い光の柱がモトに向かって突き進んだ。地面が弾け、石畳が吹き飛び、衝撃波が周囲の建物の壁を叩いた。
アシュタルは柱にしがみついた。衝撃波で体が浮きかけた。耳が痺れ、目が眩んだ。
雷撃の跡——モトが立っていた場所に、黒い穴が開いていた。石畳が溶け、下の土が露出している。
だがモトは——無傷だった。
二歩ほど横にずれて立っている。黒衣の裾すら乱れていない。
「やはり。四割では、私を傷つけることは難しいようですね」
モトの手が動いた。
灰色の光が——いや、光ではない。闇だ。光の反対。暗黒が波のように広がり、バアルに向かって押し寄せた。触れたものを枯死させる——死の力。
バアルが嵐を纏って飛んだ。神殿の屋上から跳躍し、空中でモトの攻撃をかわした。嵐が盾になり、死の波を逸らす。だが——完全には逸らせない。嵐の端が灰色に変色し、力が削られていくのが見えた。
捧げものの印が——脈打った。
手首の印が熱くなっていた。バアルの力とモトの力の衝突に反応している。銀色の円環紋様が脈動するように明滅し、二柱の力を同時に感知しているようだった。
だが印が反応しているだけだ。何かが起きているわけではない。ただ——二つの力が近くにあることを、身体が知っている。
建物が揺れた。二柱の衝突の余波で、街全体が震えている。
これが——神の戦いだ。
交渉は終わった。今は——力の世界だ。僕には何もできない世界。
柱の陰で、帳面を握りしめた。できることはない。できることは——ない。
だが。
観察はできる。
商人の目で——この戦いを見る。パターンを読む。勝敗の行方を予測する。そして——もし、隙間があるなら。言葉を差し込む隙間があるなら。
目を開けた。眩しい。閃光と暗黒が交互に視界を叩く。だが——見ることをやめなかった。
帳面を開いた。手が震えている。文字がまともに書けるか分からない。だが書いた。
「バアル:攻撃型。雷撃→暴風→豪雨の三連。間隔は十秒→伸びる傾向」
「モト:防御型。相殺主体。自分からは動かない。待ちの姿勢」
商人の分析だ。取引相手の行動パターンを記録する。相手が何をするか予測できれば——対策が立てられる。
もう一つ気づいたことがある。モトは、バアルの攻撃を相殺する時——わずかに力を吸っている。相殺しているのではなく、バアルの力の一部を自分に取り込んでいる。
バアルの力を「食べている」。
原典通りだ。モトはバアルを飲み込んだ。食べた。——それは力の吸収だった。
つまり、戦えば戦うほどモトが強くなる。バアルの力がモトに移転する。
最悪の構造だ。
この情報を——バアルに伝えなければならない。だが今は、近づくことすらできない。二柱の力の衝突の余波が、神殿の前庭を破壊し続けている。人間が近づけば、余波だけで死ぬ。
捧げものの印が、かろうじてアシュタルを守っている。だがそれも——いつまで持つか分からない。
柱が軋んだ。ひびが入った。このまま柱の陰にいても——建物が崩れれば終わりだ。
だが動けなかった。足が言うことを聞かない。恐怖ではなく——力場の圧力だ。二柱の力がぶつかり合う場に近すぎる。空気が振動し、身体が動かない。
観察を続けた。動けないなら——見ることだけでも。
バアルの攻撃がもう一段階弱まった。間隔が三十秒を超えている。嵐の密度が——目に見えて薄くなっていく。
街が震えていた。二柱の力の衝突が大気そのものを振動させ、建物が軋み、石畳がひび割れている。遠くで崩壊音が聞こえた。民家が倒壊したのだろう。
モトは——微動だにしない。灰色の力を纏い、バアルの攻撃を相殺し続けている。省エネの極致だ。必要最小限の力で、相手を追い詰める。
アシュタルは観察結果を頭に刻み込んだ。帳面に書く余裕はもうない。柱にしがみつくだけで精一杯だ。
だが——見ている。見続けている。
この戦いのパターンが、次の交渉に活きる。いつか——必ず。




