設計の破綻
モトの反論は、鮮やかだった。
バアルの期限が来る直前、最後の通信を試みた。信仰の経済学の穴を突かれる前に、自分から穴を認めて——その上で、別の提案をするつもりだった。
だがモトの方が速かった。
「アシュタルさん。昨日の続きを、私の方からお話ししてもいいですか」
モトの声が穏やかに響いた。灰色の空気が祭壇の周りに漂っている。
「……聞こう」
「あなたの『信仰の経済学』は、面白い理論でした。ですが——穴があることに、お気づきですか?」
「気づいている。あんたが人間を全滅させないなら、全滅の脅威は交渉材料にならない」
「そうです。——ですが、もう一つあります」
もう一つ。
「あなたの理論は『神が人間の信仰に依存している』ことを前提にしています。ですが——私は全ての人間から信仰を必要としているわけではありません」
「……どういうことだ」
「全滅させるつもりはない、と申しました。それは事実です。——ですが、百万の人間が必要なわけではないのです。一万で十分。いえ、千でも」
背筋が冷えた。
「千人の人間が、心の底から死を恐れ、私に祈れば——百万人が薄く信仰するより、はるかに濃い力が得られます。量より質。——商人なら分かるでしょう?」
分かる。
薄利多売と、高額少量販売の違い。モトは後者を選べる。少数の人間を深い恐怖で支配すれば、大量の人間の薄い信仰より効率的に力を得られる。
「つまり——あなたの『人口が減れば信仰も減る』という前提は、私には当てはまりません。人口が十分の一になっても、残った人間の恐怖が十倍になれば——同じことです」
帳面を持つ手が震えた。
モトの反論は——信仰の経済学の根本を崩していた。この理論は「信仰の総量は人口に比例する」という前提に立っていた。だがモトはその前提を否定した。
量ではなく質。薄い信仰ではなく、深い恐怖。
商人としての経験が告げていた。モトの論理は——正しい。高級品市場は、大衆市場より少数で成立する。一人の富豪が百人の庶民より多く支払う。同じ構造だ。
「……参った」
正直に言った。商人は、負けを認めるのも仕事の一部だ。負けを認めた上で、次の手を打つ。
「参りましたか。——では、宣戦の話に戻りましょう。私の提案は変わりません。バアルが降伏するか、戦うか。二択です」
「待て」
「待ちますよ。少しだけなら」
「穴がある。あんたの論理にも——穴がある」
モトが沈黙した。
「千人の深い信仰で足りると、あんたは言った。だがそれは——千人を管理し続けなければならないということだ。千人が死んだら終わりだ。千人が信仰を捨てたら終わりだ。——リスクが高すぎる。在庫が少ない商売は、一つの事故で潰れる」
モトの沈黙が——少し長くなった。
「……なるほど」
「あんたの理論も不完全だ。俺の理論も不完全だ。——だから、テーブルに着いて話し合うべきなんだ」
沈黙。
長い沈黙。
そして——
「不完全。——ええ。不完全ですね。お互いに」
モトの声に、微かな——本当に微かな、感嘆が含まれていた。
「ですが、テーブルに着くには——まだ足りません。あなたの提案には、私にとっての『旨味』がない。私が戦争をやめて得るものが、何もない」
「それは——」
「次に提案を持ってくる時は、『私が得るもの』を用意してください。それがなければ——戦争の方が、私にとっては効率的です」
投影が消えた。
一人になった。
祭壇の冷気が消え、春の空気が戻ってきた。だがアシュタルの中の冷えは消えなかった。モトの言葉が——内臓を凍らせている。
「私が得るもの。用意してください」
モトは何が欲しいのだ。力か。領土か。信仰か。
いや——それらは全てモトが既に持っているものだ。持っていないものを欲しがるのが「旨味」だ。商人なら分かる。既に持っているものを上乗せしても、相手は動かない。持っていないもの——欲しくても手に入らないものを提示した時に、初めて相手は動く。
モトが持っていないもの。
生——ではない。モトは生を欲していない。
対話——かもしれない。冥界に籠もり続けたモトには、対等な対話の相手がいない。バアルとは敵同士。エルとは疎遠。アシェラとは没交渉。
だがそれは「旨味」とは違う。寂しいから交渉のテーブルに着く、というのは——モトの性格ではない。
帳面を見つめた。震える手で、最後の言葉を書き留めた。
「モトが得るもの。それを用意しなければ、テーブルに着かない」
穴がある。モトは人間を全滅させない。だからこそ、「人間の生存」では交渉できない。
モトが欲しいもの。モトが戦争をやめてまで手に入れたいもの。
それは——何だ。
帳面を閉じ、神殿の外に出た。空が暗くなりかけていた。夕暮れではない。雲だ。黒い雲が、ウガルの上空に集まり始めていた。
バアルの期限が来た。
嵐が——来る。
帳面を腰にしまい、走った。バアルの神殿に向かって。足が重い。疲労と絶望が足に鉛を注ぎ込んでいる。だが走った。
期限が来た。交渉は失敗した。モトに「旨味」を提示できなかった。だが——交渉で得たものがゼロではない。
モトの論理を理解した。モトの穴も見つけた。そしてモトが「面白い」と言った。それは——わずかでも、次に繋がる材料だ。
今は戦闘になる。アシュタルにはどうすることもできない。だが——戦闘の中にも、観察の余地はある。
嵐と死がぶつかる。その衝突のパターンを読めば——次の交渉に活かせるかもしれない。
商人は、負けた商談からも学ぶ。
黒雲が空を覆っていた。雷鳴が遠くで轟いた。バアルの——覚悟の音だった。




