三百年前の契約
モトの嘲笑が、まだ耳に残っていた。
「力があれば交渉など不要なのですよ」
その言葉は——正しいのか。
事務所に戻り、茶を淹れ直し、帳面に向かった。モトの言葉を反芻する。力があれば交渉は不要。力がないから交渉する。——それは、本当にそうなのか。
違う。
力がある者同士でも、交渉は必要だ。力で決着をつければ、双方に損害が出る。勝った方にも傷が残る。——だから交渉が存在する。力の有無ではなく、損害の回避が交渉の本質だ。
だが、モトは損害を気にしない。死の神にとって、戦争の被害は損害ではなく収入だ。
ならば——別の角度から攻めるしかない。
モトに「権限がない」と言われた。「お前に何の権限がある?」と。確かに、アシュタルには仲裁の権限がない。バアルに任命されたわけでもなく、エルから委任されたわけでもない。ただの——商人の息子だ。
だが権限がないことは、交渉できないことを意味しない。
「権限はない。だが共通の利害がある」
その一言を、帳面に書いた。大きく、太く。
共通の利害。バアルとモトの共通の利害は何だ。
人間の生存。
人間が全滅すれば、信仰が消える。信仰が消えれば、バアルもモトも力を失う。——だがモトは「全滅させない」と言った。「適度な人間がいれば十分」と。
適度な人間。
その言葉が引っかかっていた。「適度」とは何だ。モトにとっての「適度」は、バアルにとっての「適度」と同じか。
違う。
バアルにとっての「適度」は、できるだけ多くの人間が生き、繁栄すること。嵐と豊穣の神にとって、人間の繁栄は力の源だ。
モトにとっての「適度」は、死が機能する程度の人間がいること。全滅はしない。だが減ってもいい。減った分は冥界の民が増えるだけだ。
ここに——差がある。
だが差があるということは、交渉の余地があるということだ。
帳面にモトの投影を再度呼び出す手順を書いた。今度は正面からではなく——側面から攻める。
翌日の夕方。再びモトの投影を呼んだ。
灰色の空気。冷気。温度のない声。
「三度目ですか。熱心ですね、アシュタルさん」
「商人は諦めが悪い」
「知っています。——で、今度は何を」
「さっき言った『権限がない』に対する答えだ」
「おや。答えがあるのですか」
「ある。——権限はない。だが共通の利害がある」
モトの沈黙。それは——興味の沈黙だった。前回の嘲笑とは違う。
「共通の利害、ですか」
「ああ。人間の生存だ」
「それは前回——」
「最後まで聞け」
アシュタルの声が——変わっていた。自分でも驚くほど、鋭く、低い声だった。
「あんたは『全滅させない』と言った。だがバアルは『繁栄させたい』と言っている。——ここに差がある。差があるということは、交渉の余地があるということだ」
「……続けてください」
「人間の数。人間の生活水準。人間の信仰の分配。——これらは全て、数字で管理できる。商人はそれを在庫管理と呼ぶ。需要と供給のバランス。バアルの『供給』とモトの『需要』のバランスを——数字で合意すれば、戦争は不要になる」
モトが黙っていた。
長い沈黙の後——声が聞こえた。
「……面白い」
嘲笑ではなかった。静かな、だが確かな興味。
「面白い発想です。人間を——在庫として管理する。信仰を——市場として配分する。商人らしい」
「褒めてるのか」
「分析しているのです。——ですが、アシュタルさん。一つ問題があります」
「何だ」
「その『在庫管理』を誰がするのですか? バアルですか? 私ですか? ——エルですか?」
答えられなかった。
「管理者がいなければ、合意は守られません。そして神々は——管理されることを好みません。私もバアルも」
モトの声に、わずかな笑みが含まれていた。嘲笑ではない。だが——「まだ足りない」と告げる笑みだった。
「面白い提案でした。前回よりは。——ですが、私がテーブルに着く理由としては、まだ不十分です」
投影が消えた。
一人になった祭壇の前で、帳面を見つめた。
モトの嘲笑の奥に、わずかな興味が見えた。——いや、見えたと思いたいだけか。
だが前回とは違った。前回は一蹴された。今回は——「面白い」と言われた。モトがあの言葉を使う時は、本当に興味を持った時だけだ。冥界での商談で学んだことだ。
足りない。だが——方向は間違っていない。
管理者。誰が管理するか。
神でも人間でもない管理者。あるいは——神と人間の双方が認める管理者。
その答えは——まだ見つからない。だが、問いの形が変わった。
「何で交渉するか」から「誰が管理するか」へ。
一歩、前に進んだ。
帳面に書いた。
「モトの興味を引いた。次の課題:管理者の問題。誰が神と人間の関係を管理するか」
答えは——まだない。だが、問いが鮮明になった。
商人の仕事は、正しい問いを見つけることだ。答えは、その後についてくる。
祭壇を離れ、神殿の外に出た。
空が暗くなり始めていた。雲ではない——時間だ。日が傾いている。バアルの「二日半」の期限が、刻一刻と迫っている。
街を歩いた。北側市場の前を通りかかった時、商人仲間のダガンに声をかけられた。
「アシュタル。おい、どうするつもりだ。市場は明日から完全に閉まるぞ」
「商人組合長は」
「手を打てないと匙を投げた。バアル派とモト派が殴り合った。市場の中で。——もう無理だ」
アシュタルは拳を握った。
市場が閉まる。経済が止まる。日常が壊れる。
これもモトの計算のうちだ。人間の日常を破壊し、不安を煽り、恐怖を深める。深い恐怖は深い信仰を生む。モトの力が増す。
完璧な戦略だ。——だが、完璧な戦略には、完璧であるがゆえの脆さがある。
一箇所でも歯車が狂えば、全体が崩れる。
その一箇所を——見つけなければならない。
ダガンに答えた。
「市場は閉めるな。——俺が何とかする」
「何とかって、どうやって」
「分からない。でも閉めたら終わりだ。商売が止まったら——この街は死ぬ」
ダガンが苦い顔をした。だが——頷いた。商人は商売が止まることを何より恐れる。
事務所に戻った。帳面を開いた。モトの穴。管理者の問題。市場の危機。全てが同時に進行している。
一人では足りない。だが——一人しかいない。
ペンを取った。書き続けた。




