門前の問答
アナトの消息を聞いたのは、アシェラからだった。
翌朝、港の水辺の祠。潮の匂いが濃い小さな社に、アシェラの気配があった。海の女神は派手な顕現を好まない。水面の揺らぎ、貝殻の色、潮風の温度——そうした些細な変化を通じて、存在を知らせる。
「アシェラ様」
「あら。よく気づいたわね」
水面に映った女の顔が、穏やかに微笑んだ。母親のような、あるいは年の離れた姉のような微笑み。カナアン神族の中で、アシュタルが最も気楽に話せる相手だった。
「アナトのことを聞きたいんだろう」
見透かされていた。だが隠す気もなかった。
「ああ。あの人が——どこにいるか、知っているか」
「知っているわよ。というより、さっき帰ってきた情報があるの」
アシェラの声が少し真面目になった。水面の揺らぎが静まった。
「アナトは——エルの山に向かっていた」
心臓が跳ねた。
「エルの山?」
「ええ。あなたが行く前——いえ、ほぼ同時期に。入れ違いになったかもしれないわね」
入れ違い。
アシュタルがエルの山に登っている間に、アナトも同じ山を目指していた。あるいは既に着いていた。あるいは——すれ違っていた。
「なぜ」
「理由は——アナトから直接聞いたわけではないの。ただ、あの子が出発する前に一つだけ言っていたのよ」
「何と」
「『禁忌を解く方法を聞きに行く』と」
帳面を持つ手が止まった。
禁忌。神が人間に本気の感情を向けると、神力が人間に流れ込み、人間の肉体を蝕む。アナトが距離を取った理由。「近づくな」と言った理由。「触れるだけで壊す」と恐れた理由。
その禁忌を——解く方法を聞きに。
「……エルなら、知っているか」
「禁忌を定めたのはエルよ。解く方法があるとすれば、エルしか知らないでしょうね」
「あの人は——僕を遠ざけながら、禁忌を解こうとしていたのか」
アシェラの水面の顔が、少し寂しそうに微笑んだ。
「あの子はいつも遠回りをするわね。真っすぐ言えばいいのに。——でも、それがアナトなのよ。守りたいものからこそ、離れようとする。壊さないために」
壊さないために。
アシュタルは波止場の石に座り込んだ。膝の力が抜けたのではない。座らなければ、頭の中が整理できなかった。
アナトは禁忌を解こうとしていた。
それは——アシュタルとの関係を「続けたい」ということだ。距離を取ったのは「終わらせたい」からではなく、「終わらせないために」だ。
遠回りだ。いつも、遠回りをする。
「でも——」
アシェラの声が続いた。
「エルが何を答えたかは分からない。アナトがエルの山にどれだけいたかも。そしてアナトが今どこにいるかも——正確には分からないの」
「帰って来ているのか」
「まだよ。少なくとも私が知る限りでは、ウガルには戻っていない。でも——遠くはないと思う。気配はある。弱いけれど」
弱い。
その一言が引っかかった。アナトの気配が「弱い」とはどういうことだ。戦争の女神の気配は常に力強い。嵐のように荒々しく、炎のように激しい。それが——弱い。
「アシェラ様。弱いとは——」
「分からない。でも気になるのよ。あの子の気配が、以前より——薄い」
薄い。
胸の中で、何かが軋んだ。
「ありがとう。情報は助かる」
「気をつけてね、アシュタル。あの子のことだから——何か無茶をしている可能性があるわ。エルに何かを『支払った』かもしれない」
支払った。
神が最高神エルに何かを支払う。情報の対価。禁忌を解く方法を聞くための——代価。
エルは慈善事業をしない。アシュタルはそれを身をもって知っている。エルの山で、双方向の契約の概念を教わった時——アシュタルも何かを支払った。自分ではまだ気づいていない何かを。
アナトは何を支払った。
戦争の女神が支払えるもの。力か。記憶か。寿命か。
考えたくなかった。だが考えずにはいられなかった。
アシェラの気配が薄れていった。水面の顔が波に溶け、潮風だけが残った。
一人になった祠で、帳面を開いた。
アナトの行き先:エルの山。目的:禁忌を解く方法。結果:不明。状態:気配が弱い。
書き留めた文字を見つめた。乾いたインクの文字が、ただの情報として並んでいる。だがその文字の裏に——感情が滲んでいた。
あの人は——僕を遠ざけながら、禁忌を解こうとしていた。
遠回りだ。
いつも、遠回りをする。
帳面を閉じ、空を見上げた。青い空だった。雲が一つ、東から西へ流れている。
アシェラが言った言葉をもう一つ思い出した。「あの子は力以外の守り方を知らない」。そうだ。アナトは力で守る。剣で斬り、神力で砕き、立ちはだかって盾になる。
だが今回は——力以外の方法を探しに行った。禁忌を解く方法。力ではなく、知識で解決しようとした。
それは——アシュタルの影響だろうか。商人と旅をする中で、力以外の解決法があることを知った。言葉で交渉し、知恵で切り抜け、取引で道を開く。
アナトがその方法を選んだのだとすれば——それは変化だ。戦争の女神が、戦い以外の手段を選んだ。
嬉しいと思った。同時に——不安だった。アナトが力以外の方法を選ぶということは、力に頼れない状況だということだ。弱体化しているなら——なおさら。
力がない者は、別の手段で戦う。アシュタルがずっとそうしてきたように。
今度は——アナトが、そうしている。
アナトが帰って来る。
いつかは分からない。だが帰って来る。——帰って来なければならない。
この戦いに、あの人が必要だ。
……戦いのためだけではなく。
そう思った自分に気づいて、アシュタルは自嘲気味に笑った。
「商人失格だな」
誰にも聞こえない声で呟き、祠を後にした。




