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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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二つの河

 ヤムが来たのは、その日の夕方だった。


 港の波止場に座って海を見ていた時だ。コスト計算の失敗を引きずりながら、頭を冷やすために海風に当たっていた。


 波が——変わった。


 穏やかだった海面が、突然うねり始めた。風はない。潮の流れでもない。海そのものが意志を持ったように動いている。


「久しぶりだな、商人」


 波止場の端に、男が立っていた。


 ヤム。海と川の神。


 青みがかった肌。潮の匂い。波打つ髪。人間に見えなくもないが、目が違う。瞳の中に海がある。文字通り、瞳の奥に水平線が見える。


「……あんたか。何の用だ」


「用がなければ来ないとでも?」


「あんたは用がなければ来ない」


 ヤムが笑った。海風のような笑いだった。爽やかなようでいて、どこか冷たい。


「まあ、そうだな。——モトの宣戦、聞いたか」


「聞いた。今朝、直接」


「それで? どうする気だ」


「どうすると思う」


「さあな。商人のことは商人にしか分からん。——だが、一つ提案がある」


 ヤムが波止場に腰を下ろした。海の神が人間と同じ高さに座る。それ自体が珍しいことだった。


「仲裁する気はないか」


 アシュタルは帳面を閉じて、ヤムの顔を見た。


「仲裁」


「ああ。バアルとモトの間に立って、戦いを止める。——お前なら、できるんじゃないか」


「何を根拠に」


「根拠ならあるだろう。お前はバアルとも取引した。モトとも取引した。俺とも取引した。エルにも会った。——カナアン神族の主要な神と対等に口を利ける人間は、お前だけだ」


 事実だった。だが——


「仲裁は取引より難しい」


「なぜだ」


「取引は二者間で成立する。売り手と買い手。だが仲裁は三者だ。仲裁者は双方から信頼されなければならない。——俺はバアル寄りだ。モトがそれを知らないわけがない」


「だからこそだ。バアル寄りの人間が『モトの言い分にも理がある』と認めれば、モトは聞く耳を持つかもしれない」


 ヤムの論理は、商人の論理に近かった。海の神は交易の神でもある。波と風を読む能力は、商機を読む能力と重なる。


「条件は」


「条件?」


「仲裁するなら、条件が要る。バアルとモトの双方が受け入れる条件。休戦の対価。——何がある?」


 ヤムが黙った。


 海風が吹いた。ヤムの髪が揺れた。瞳の中の海が波立った。


「……正直に言えば、分からん」


「分からない?」


「バアルとモトの争いは、生と死の対立だ。根源的な対立だ。領土問題や権力争いなら、分割や譲歩で解決できる。だが——生と死をどう分割する? どう譲歩する?」


 アシュタルも同じことを考えていた。


 バアルは嵐と豊穣の神。生の力を司る。モトは死と冥界の神。終わりの力を司る。この二つは——そもそも分割不可能だ。生があるから死があり、死があるから生がある。一方を滅ぼせば、もう一方も成り立たない。


「条件が見つからない」


 アシュタルは呟いた。


「バアルとモトの双方が受け入れる条件——そんなものは存在するのか?」


「だから『見つける』んだろう。お前の仕事は」


「押し売りか」


「提案だ。対価なしの」


「タダの提案ほど高くつくものはない」


 ヤムが笑った。今度は本物の笑い——のように見えた。だが海の神の本音は、海の底のように見えない。


「ヤム。一つ聞く」


「何だ」


「あんたは中立か」


 ヤムの笑みが消えた。瞳の中の海が凪いだ。


「……中立だ」


「嘘はつくな。あんたはかつてバアルに負けた。その恨みは」


「恨みはある。だが——モトに肩入れする気もない。死の神に海を凍らされるのは御免だ」


「なら、なぜ仲裁を勧める」


「戦争になれば海が荒れる。嵐と死の衝突は海にも波及する。俺の領域が荒らされるのは——商人風に言えば、コストが高い」


 利害。ヤムにはヤムの利害がある。中立は善意ではなく、自己利益の計算だ。


 だが——それでいい。利害が透明な相手は信用できる。善意より利害の方が予測可能だ。


「考えておく」


「長くは待てんぞ。モトは動く。バアルも動く。二柱が動けば——仲裁の余地がなくなる」


「分かってる」


 ヤムが立ち上がった。波止場の端に立ち、海を振り返った。


「一つだけ言っておく」


「何だ」


「仲裁者は、どちらからも殴られる覚悟がいる。——お前にその覚悟があるなら、やってみろ」


 ヤムの姿が霧のように薄れ、海風に溶けた。波が穏やかに戻った。


 一人になった波止場で、帳面を開いた。


 仲裁。条件つき休戦。バアルとモトの双方が受け入れる条件。


 条件が見つからない。


 だが——条件が見つからないことと、条件が存在しないことは違う。見つかっていないだけだ。探し方が間違っているのかもしれない。


 帳面に書いた。


「仲裁の条件を探す」


 その下に。


「探す場所:バアルの言い分、モトの言い分、そして——どちらにも属さない場所」


 どちらにも属さない場所。


 それは——人間の場所だ。


 日が沈んでいた。海に夕日が沈み、水面が赤く染まっていた。美しい光景だったが、アシュタルの目には——天秤のように見えた。


 太陽が沈み、闇が来る。だがまた昇る。その繰り返し。


 生と死も——そういうものではないのか。


 帳面に書き加えた。


「天秤。生と死の天秤。どちらかを勝たせるのではなく——天秤そのものを作り直す」


 まだ輪郭しかない。だが——何かが、形になりかけていた。


 波止場に一人残り、帳面に向かった。夜の海は静かだった。波音だけが規則的に響いている。ヤムの領域は平穏だ。嵐も死も、海の上では力が弱まる。


 ヤムが仲裁を勧めた。仲裁にはリスクがある。双方から殴られる覚悟。だが——仲裁者がいなければ、対話は生まれない。


 アシュタルは商人だ。商人は仲買人。売り手と買い手の間に立ち、双方を繋ぐ。値段を交渉し、品質を保証し、取引を成立させる。


 バアルとモトの間に立つ仲買人。


 売り物は——平和か。平和を売る。生と死の共存という商品を、双方に売り込む。


 高い商品だ。値段がつけられないほど高い。だが——値段のつかない商品はない。商人の信条だ。全てのものには値段がある。


 帳面を閉じ、海を見た。水平線は暗闇に沈み、星明かりだけが海面を微かに照らしていた。


 明日からが本番だ。仲裁者として動くなら——まず具体的な条件を形にしなければならない。バアルとモトの双方が受け入れられる条件。天秤を作り直す方法。


 まだ見つかっていない。だが——探し続ける。


 商人は諦めが悪い。それだけが、取り柄だ。


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