ペンダントの文字
朝になって、バアルに報告した。
モトの宣戦。戦場は人間の世界。バアルは黙って聞いていた。嵐神の顔に浮かんだのは怒りではなく——苦い理解だった。
「そう来るか」
「予想していたか」
「……半分は。冥界に引きずり込もうとするか、こちらに出てくるかの二択だった。出てくる方を選んだか」
「理由は分かるか」
「ああ。信仰だ」
バアルも理解していた。嵐神は力任せに見えて、王としての知性がある。冥界での長い時間が、その知性を研いでいた。
「人間の世界で戦えば、恐怖が信仰を生む。モトの力が増す。逆に俺の信仰は——」
「薄れる。怖い神を捨てて、もっと怖い神に縋る。人間はそうする」
「……ああ」
沈黙が落ちた。
アシュタルは帳面を開いた。夜通し書き続けた対策案。だが——読み返すと、どれも薄っぺらかった。
コストの概念で神を動かす。戦争の被害を数字にして突きつける。人間の命の価値を、経済的損失として言語化する。
商人としては合理的な発想だ。だが——
「バアル。一つ試してもいいか」
「何だ」
「モトに——戦争のコストを突きつけたい」
バアルが眉を上げた。
「コスト?」
「ウガルの年間交易額は銀七万シェケルだ。カナアン沿岸全体なら百万シェケルを超える。これが戦争で半減すれば——人間の生活基盤が崩れる。飢饉が来る。疫病が来る。人口が減る。人口が減れば信仰も減る。モトの力も——」
「減る、と」
「そうだ。戦争は双方にとってコストが高すぎる。その数字を叩きつけて、交渉のテーブルに引き戻す」
バアルは腕を組んで考えた。
「……やってみろ。だが、期待はするな」
「なぜ」
「モトにはコストの概念が——通じないかもしれない」
通じないかもしれない。
その予感は正しかった。
午後、モトの投影に再び接触した。今度はアシュタルの方から呼んだ。方法はバアルの神殿にある冥界の通信具——死者への祈りの祭壇を利用した、即席の通話装置だ。
モトの投影が現れた。昨夜と同じ灰色の長衣の男。フードの奥の、温度のない微笑み。
「おや。アシュタルさんの方から呼んでいただけるとは。光栄です」
「商談がある」
「商談、ですか。戦争の最中に?」
「戦争の最中だからこそだ。——数字を見てくれ」
帳面を開いた。夜通し計算した数字を並べた。ウガルの交易額。カナアン沿岸の経済規模。戦争被害の予測。人口減少の推計。信仰減少の見積もり。
「戦争をすれば、カナアン沿岸の人口は十年で三割減る。三割の人間が死ぬ。——つまり三割の信仰が消える。あんたの力も三割減る。この損失は回復に百年かかる」
モトは黙って聞いていた。
「百年分の信仰を失う戦争。それがあんたにとって——得な取引か?」
沈黙があった。
そしてモトが——笑った。
穏やかな笑い。だが底のない笑い。
「面白い計算ですね、アシュタルさん。商人らしい。実に商人らしい」
「面白いかどうかは聞いてない。数字を見てくれ」
「見ましたよ。見事な帳簿です。——ですが」
モトの声が少しだけ低くなった。微笑みはそのままだった。
「私は商人ではありません。コストで動く存在ではないのです」
「だが損得は理解するだろう」
「ええ。理解はします。しかし——死の神にとって、人間が死ぬことは損失ではありません」
心臓が冷えた。
「人間が死ねば、冥界に来ます。冥界の民が増えます。私にとって人間の死は——売上ですよ。あなたの言葉で言えば」
帳面を持つ手が震えた。
分かっていた。頭では分かっていた。だが——こうして面と向かって言われると、背筋が凍る。
コストの概念が通じない。神には——人間の「損失」が見えない。
いや、見えてはいる。だがそれは「損失」ではなく「収益」なのだ。モトの帳簿では、人間の死は赤字ではなく黒字に計上される。
「…………」
「アシュタルさん。あなたの計算は正確です。人口が三割減ることも、信仰が減ることも。——ですが、それは地上の信仰の話です。冥界の信仰は増えますからね。差し引きゼロ。いえ、冥界は地上より信仰の減衰が少ないので——むしろプラスです」
帳面を閉じた。
負けた。
この論理では——勝てない。モトの帳簿は人間の帳簿とは別の通貨で動いている。人間の命の「コスト」を語っても、モトには通じない。死の神にとって、死は費用ではなく収入だ。
モトの投影が消えた。穏やかな微笑みと、「またお会いしましょう」という社交辞令を残して。
一人になった神殿で、帳面を見つめた。
夜通し書いた計算。精密な数字。完璧な論理。
全て——無駄だった。
商人の合理性は、死の神の論理には通じない。コストの言語が通じない相手に、コストで語りかけても意味がない。
では——何で語りかける。
分からなかった。初めて、本当に分からなかった。
帳面のページを一枚破り、丸めて床に捨てた。
——いや。
拾い上げた。丸めた紙を広げ、皺を伸ばし、帳面に挟み直した。
失敗した計算を捨てるな。祖父の教えだ。失敗した商談の記録は最も貴重な資料になる。なぜ失敗したかを分析すれば、次の商談に活かせる。
なぜ失敗した。
コストの概念が通じなかった。なぜか。モトにとって人間の死は損失ではないから。
なら——モトにとって「損失」になるものは何だ。
死の神が失って困るもの。死の神の帳簿で赤字になるもの。
分からない。だが——考え続けなければならない。
窓の外で、風が唸っていた。嵐ではない。ただの風だ。だが——嵐の前兆のような、不穏な風だった。
立ち上がり、事務所の壁に貼った地図を見つめた。カナアンの地図。ウガルの位置を指で押さえ、そこから放射状に広がる交易路を辿った。
この街は交差点だ。海路と陸路が交わる場所。物が集まり、人が集まり、情報が集まる。——信仰も集まる。
バアルの信仰が強い理由は、ウガルが交易都市だからだ。商人は豊穣の神に祈る。航海の安全を祈る。嵐が穏やかであることを祈る。商売が繁盛することを祈る。
だが今、その祈りが揺らいでいる。商売が止まれば、祈る理由がなくなる。バアルへの信仰が弱まれば、バアルの力も弱まる。
モトの情報工作は——この構造を狙っていた。商売を止めさせ、祈りを止めさせ、バアルの信仰を枯らす。
商人は何を祈る?
安全と繁栄だ。
安全が脅かされた今、商人は別の神に祈り始める。「安全を保証してくれる」神に。つまり——モトに。死から守ってくれる神に。
信仰の移動。市場原理だ。品質の良い商品に客が流れるように、「ご利益のある」神に信仰が流れる。
バアルの「商品力」が落ちている。回復途上で力が弱い。実績が出せない。——商人の世界なら、取引先を変えられてもおかしくない状況だ。
ならば——バアルの「商品力」を回復させるか、モトの「商品力」に疑問を投げかけるか。
両方やらなければならない。だが——どちらも簡単ではない。
帳面を閉じた。一つだけ確かなことがある。
分からないことがある時は、調べ続けるしかない。商人の鉄則だ。
明日もまた、帳面と向き合う。答えが出るまで。




