↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
270/345

ペンダントの文字

 朝になって、バアルに報告した。


 モトの宣戦。戦場は人間の世界。バアルは黙って聞いていた。嵐神の顔に浮かんだのは怒りではなく——苦い理解だった。


「そう来るか」


「予想していたか」


「……半分は。冥界に引きずり込もうとするか、こちらに出てくるかの二択だった。出てくる方を選んだか」


「理由は分かるか」


「ああ。信仰だ」


 バアルも理解していた。嵐神は力任せに見えて、王としての知性がある。冥界での長い時間が、その知性を研いでいた。


「人間の世界で戦えば、恐怖が信仰を生む。モトの力が増す。逆に俺の信仰は——」


「薄れる。怖い神を捨てて、もっと怖い神に縋る。人間はそうする」


「……ああ」


 沈黙が落ちた。


 アシュタルは帳面を開いた。夜通し書き続けた対策案。だが——読み返すと、どれも薄っぺらかった。


 コストの概念で神を動かす。戦争の被害を数字にして突きつける。人間の命の価値を、経済的損失として言語化する。


 商人としては合理的な発想だ。だが——


「バアル。一つ試してもいいか」


「何だ」


「モトに——戦争のコストを突きつけたい」


 バアルが眉を上げた。


「コスト?」


「ウガルの年間交易額は銀七万シェケルだ。カナアン沿岸全体なら百万シェケルを超える。これが戦争で半減すれば——人間の生活基盤が崩れる。飢饉が来る。疫病が来る。人口が減る。人口が減れば信仰も減る。モトの力も——」


「減る、と」


「そうだ。戦争は双方にとってコストが高すぎる。その数字を叩きつけて、交渉のテーブルに引き戻す」


 バアルは腕を組んで考えた。


「……やってみろ。だが、期待はするな」


「なぜ」


「モトにはコストの概念が——通じないかもしれない」


 通じないかもしれない。


 その予感は正しかった。


 午後、モトの投影に再び接触した。今度はアシュタルの方から呼んだ。方法はバアルの神殿にある冥界の通信具——死者への祈りの祭壇を利用した、即席の通話装置だ。


 モトの投影が現れた。昨夜と同じ灰色の長衣の男。フードの奥の、温度のない微笑み。


「おや。アシュタルさんの方から呼んでいただけるとは。光栄です」


「商談がある」


「商談、ですか。戦争の最中に?」


「戦争の最中だからこそだ。——数字を見てくれ」


 帳面を開いた。夜通し計算した数字を並べた。ウガルの交易額。カナアン沿岸の経済規模。戦争被害の予測。人口減少の推計。信仰減少の見積もり。


「戦争をすれば、カナアン沿岸の人口は十年で三割減る。三割の人間が死ぬ。——つまり三割の信仰が消える。あんたの力も三割減る。この損失は回復に百年かかる」


 モトは黙って聞いていた。


「百年分の信仰を失う戦争。それがあんたにとって——得な取引か?」


 沈黙があった。


 そしてモトが——笑った。


 穏やかな笑い。だが底のない笑い。


「面白い計算ですね、アシュタルさん。商人らしい。実に商人らしい」


「面白いかどうかは聞いてない。数字を見てくれ」


「見ましたよ。見事な帳簿です。——ですが」


 モトの声が少しだけ低くなった。微笑みはそのままだった。


「私は商人ではありません。コストで動く存在ではないのです」


「だが損得は理解するだろう」


「ええ。理解はします。しかし——死の神にとって、人間が死ぬことは損失ではありません」


 心臓が冷えた。


「人間が死ねば、冥界に来ます。冥界の民が増えます。私にとって人間の死は——売上ですよ。あなたの言葉で言えば」


 帳面を持つ手が震えた。


 分かっていた。頭では分かっていた。だが——こうして面と向かって言われると、背筋が凍る。


 コストの概念が通じない。神には——人間の「損失」が見えない。


 いや、見えてはいる。だがそれは「損失」ではなく「収益」なのだ。モトの帳簿では、人間の死は赤字ではなく黒字に計上される。


「…………」


「アシュタルさん。あなたの計算は正確です。人口が三割減ることも、信仰が減ることも。——ですが、それは地上の信仰の話です。冥界の信仰は増えますからね。差し引きゼロ。いえ、冥界は地上より信仰の減衰が少ないので——むしろプラスです」


 帳面を閉じた。


 負けた。


 この論理では——勝てない。モトの帳簿は人間の帳簿とは別の通貨で動いている。人間の命の「コスト」を語っても、モトには通じない。死の神にとって、死は費用ではなく収入だ。


 モトの投影が消えた。穏やかな微笑みと、「またお会いしましょう」という社交辞令を残して。


 一人になった神殿で、帳面を見つめた。


 夜通し書いた計算。精密な数字。完璧な論理。


 全て——無駄だった。


 商人の合理性は、死の神の論理には通じない。コストの言語が通じない相手に、コストで語りかけても意味がない。


 では——何で語りかける。


 分からなかった。初めて、本当に分からなかった。


 帳面のページを一枚破り、丸めて床に捨てた。


 ——いや。


 拾い上げた。丸めた紙を広げ、皺を伸ばし、帳面に挟み直した。


 失敗した計算を捨てるな。祖父の教えだ。失敗した商談の記録は最も貴重な資料になる。なぜ失敗したかを分析すれば、次の商談に活かせる。


 なぜ失敗した。


 コストの概念が通じなかった。なぜか。モトにとって人間の死は損失ではないから。


 なら——モトにとって「損失」になるものは何だ。


 死の神が失って困るもの。死の神の帳簿で赤字になるもの。


 分からない。だが——考え続けなければならない。


 窓の外で、風が唸っていた。嵐ではない。ただの風だ。だが——嵐の前兆のような、不穏な風だった。


 立ち上がり、事務所の壁に貼った地図を見つめた。カナアンの地図。ウガルの位置を指で押さえ、そこから放射状に広がる交易路を辿った。


 この街は交差点だ。海路と陸路が交わる場所。物が集まり、人が集まり、情報が集まる。——信仰も集まる。


 バアルの信仰が強い理由は、ウガルが交易都市だからだ。商人は豊穣の神に祈る。航海の安全を祈る。嵐が穏やかであることを祈る。商売が繁盛することを祈る。


 だが今、その祈りが揺らいでいる。商売が止まれば、祈る理由がなくなる。バアルへの信仰が弱まれば、バアルの力も弱まる。


 モトの情報工作は——この構造を狙っていた。商売を止めさせ、祈りを止めさせ、バアルの信仰を枯らす。


 商人は何を祈る?


 安全と繁栄だ。


 安全が脅かされた今、商人は別の神に祈り始める。「安全を保証してくれる」神に。つまり——モトに。死から守ってくれる神に。


 信仰の移動。市場原理だ。品質の良い商品に客が流れるように、「ご利益のある」神に信仰が流れる。


 バアルの「商品力」が落ちている。回復途上で力が弱い。実績が出せない。——商人の世界なら、取引先を変えられてもおかしくない状況だ。


 ならば——バアルの「商品力」を回復させるか、モトの「商品力」に疑問を投げかけるか。


 両方やらなければならない。だが——どちらも簡単ではない。


 帳面を閉じた。一つだけ確かなことがある。


 分からないことがある時は、調べ続けるしかない。商人の鉄則だ。


 明日もまた、帳面と向き合う。答えが出るまで。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。