一人旅
モトからの使者は、夜明け前に来た。
アシュタルが事務所の机で帳面と格闘していた時だった。蝋燭の炎が揺れた。窓は閉めてある。風はない。なのに——炎が揺れた。
空気が冷えた。
春の夜だ。冷えるはずがない。なのに吐く息が白く見えた。指先が痺れ、帳面を持つ手が震えた。
来た。
冥界の気配だ。
立ち上がった。扉が——開いていた。閉めたはずの扉が、音もなく開いている。その向こうに、人影があった。
痩せた男だった。灰色の長衣をまとい、フードを深く被っている。顔は見えない。だが——その男から漂う気配は、人間のものではなかった。温度がない。生命の気配がない。動いているのに、生きていない。
「アシュタルさん。お久しぶりです」
男の口が動いた。声は——モトの声だった。
使者ではない。冥界の力を媒介にした、モトの投影。本体ではないが、意志は本物だ。
「……夜中に来るのは、商人の慣例としてはいただけないな」
「おや。商人の方は昼の方がよろしいですか。死の方は夜の方が落ち着くのですが」
「要件を聞こう」
灰色の男——モトの投影が、フードの奥で微笑んだ気配がした。笑顔が見えなくとも、空気の温度でそれが分かった。
「宣戦です」
一言だった。
「バアルに伝えてください。『戦場は人間の世界にする』と」
蝋燭の炎がまた揺れた。アシュタルの心臓が跳ねたが、顔には出さなかった。出せなかった。商人は不利な時ほど表情を変えない。
「人間の世界、というと」
「このウガルです。それからカナアン沿岸の主要な都市。人間が信仰する場所。神殿がある場所。——そこが戦場になります」
「なぜだ。冥界で戦えばいい。あんたの領地だ。有利だろう」
「ええ、有利です。ですが——バアルは冥界には来ないでしょう。一度あそこに留まった者は、二度とは来たがらない。ですから、こちらから出向くことにしました」
嘘だ。
理由はそれだけではない。アシュタルの商人の勘がそう告げていた。モトが人間の世界を戦場に選んだのには、もっと計算がある。
信仰。
人間の恐怖が信仰を生む。信仰が神の力になる。戦場が人間の世界なら——人間は直接恐怖を味わう。死の恐怖。戦争の恐怖。そしてその恐怖は——モトへの信仰に変わる。
戦えば戦うほど、モトの力が増す構造だ。
「人間を巻き添えにするのか」
声が低くなっていた。自分でも気づかないうちに。
「巻き添え、ですか。面白い表現ですね」
モトの投影が首を傾げた。
「人間は巻き添えではありませんよ。アシュタルさん。人間は——資源です。信仰という資源を生み出す、大切な存在です。壊すつもりはありません。ただ——恐怖を感じてもらうだけです」
拳を握った。爪が掌に食い込んだ。
「神と神の戦いに、人間を巻き込むな」
「巻き込む? いいえ。人間は最初から巻き込まれています。信仰という形で。奉納という形で。——ずっと前から、人間は神の戦いの一部でしたよ。今さら何を」
反論できなかった。
モトの言葉は——正しかった。人間は信仰を通じて、常に神の世界に組み込まれている。アシュタルが「巻き込むな」と言っても、既に巻き込まれている。今に始まったことではない。
だが——だからこそ、その構造を変えなければならない。
「分かった。バアルに伝える」
「お願いしますね。それと——アシュタルさん」
灰色の男が一歩近づいた。冷気が肌を刺した。
「あなたも、戦場にいるのですよ。お忘れなく」
投影が消えた。蝋燭の炎が正常に戻り、空気の温度が上がった。春の夜が戻ってきた。
だが——指先の冷えは消えなかった。
帳面を開いた。震える手で書き込んだ。灰色の男が立っていた場所の空気がまだ冷たい。机の上の茶碗に触れると、中身が凍りかけていた。
モトの宣戦。戦場は人間の世界。人間を「資源」として使う戦略。
人間の世界で戦う。それは——人間を「巻き添え」にするのではなく、人間を「資源」として使うということだ。
商人として——これほど怒りを覚えたことはなかった。
人間は商品ではない。資源ではない。
だが——モトの論理の中では、そうだ。信仰を生み出す装置としての人間。恐怖の燃料としての人間。
この構造を、壊さなければならない。
蝋燭を新しいものに替え、帳面に向かい直した。怒りは後だ。今は——対策を考えろ。
戦場が人間の世界に設定された。それは不利だ。だが——不利な条件の中にも、必ず交渉の余地がある。
人間の世界が戦場なら——人間こそが、この戦場の「地の利」を持っている。
その利を、どう使う。
戦場が人間の世界に設定された。不利だ。だが——「不利」の中身を正確に分析すれば、対策が立てられるかもしれない。
不利な点。一つ、人間の被害が出る。二つ、恐怖がモトの信仰を強化する。三つ、バアルが「民を守りながら戦う」ことを強いられ、力が分散する。
有利な点。——一つ、人間の世界はアシュタルの「ホーム」だ。地理を知っている。人脈がある。情報網がある。二つ、モトは冥界の外では力が減衰する。地上ではモトの全力は出せない。三つ、人間の数が多い。信仰の総量で言えば、地上はバアルに有利だ——もし人間がバアルを支持し続ければ。
有利な点の三つ目。ここがカギだ。
人間がバアルを支持し続ければ。
だが今、人間の支持は揺らいでいる。モトの信仰工作で、民心がモト側に傾きつつある。この流れを止めなければ——有利な点が消える。
民心の回復。それは——商人の仕事だ。商品を売り込むのと同じだ。バアルという「商品」の価値を、もう一度人間に伝える。弱った嵐神にも、まだ価値があることを。
帳面のページが埋まっていく。夜が明けるまで、ペンは止まらなかった。




