隠居の山
バアルの神殿は、以前より静かだった。
参拝者がいない。広い前庭に人影がなく、供え物の台には萎れた花と乾いた果物が放置されている。かつては朝から晩まで祈りの声が絶えなかった場所が、今は石の反響だけが空虚に響いていた。
神殿の奥。バアルがいた。
石の長椅子に腰を下ろし、目を閉じている。帰還直後よりは顔色がましになっていた。白混じりだった髪も、黒が戻りつつある。だが——右腕の雷の紋様は薄いままだ。力は完全には戻っていない。
「戻ったか」
アシュタルの気配に気づいて目を開けた。濃い青の瞳。嵐の残光がある目だ。
「ああ。エルに会ってきた」
「……そうか。あの方は何と」
「色々と。後で話す。——先に聞きたい。街のことは」
バアルの表情が暗くなった。
「知っているか」
「さっき見てきた。酷い有様だ」
「……ああ」
バアルが立ち上がった。窓のない神殿の壁に手をついて、外の空気を探るように目を細める。嵐を操る神にとって、空気の流れは情報そのものだった。だが今のバアルには——空気を読むことはできても、嵐を呼ぶことは覚束ない。
「モトの手だ。直接手は下していない。人間を使っている」
「知ってる。見事な手口だ。商人としては舌を巻く」
「褒めている場合か」
「分析だ。敵の手口を褒めることと、敵を認めることは違う」
バアルが苦笑した。この男は冥界の底でもこうだった。嵐神の前で臆さず、軽口を叩き、だが核心を外さない。
「アシュタル。俺は——もう放置できない」
声が変わった。軽口の時間は終わりだと告げる声だった。
「モトを放置すれば、ウガルが潰れる。この街だけじゃない。モトの影響はカナアン全域に広がっている。信仰の揺らぎは——俺の力の回復を直接妨げている」
「分かってる。信仰が弱まれば、あんたの力も弱まる。逆も然り。悪循環だ」
「だからこそ——戦わなければならない」
バアルの目に嵐があった。
比喩ではなく、物理的に。濃い青の瞳の奥で、微かな稲光が走った。弱々しいが、確かにそこに嵐がある。
「力は戻っているのか」
「……完全ではない。五割、いや——四割か。冥界の後遺症がある。長く留まりすぎた」
「四割で、モトに勝てるのか」
沈黙が落ちた。
バアルは嘘をつかなかった。嵐の神は正直だ。力で生きてきた者は、自分の力の限界を正確に知っている。
「勝てないかもしれない」
「だったら——」
「それでも戦う」
バアルの声は静かだった。だがその静けさの中に、雷の前の空気がある。嵐が来る直前の、ぞっとするような静寂。
「王として、逃げるわけにはいかない。俺が逃げれば、バアルを信じている人間たちが見捨てられる。——俺は一度、冥界に留まることで民を見捨てた。二度目はない」
アシュタルは帳面を閉じた。
止められない。バアルの目を見れば分かる。あの目は——覚悟を決めた目だ。理屈では動かない。損得では動かない。王としての矜持が、嵐神としての誇りが、あの目の奥で燃えている。
止められないなら——方向を変える。
「戦うなとは言わない」
バアルが怪訝な顔をした。
「止めないのか」
「止めても無駄だろう。あんたの目を見れば分かる。でも——一つだけ聞かせてくれ」
「何だ」
「戦い方は、選べるか」
バアルが眉を上げた。
「正面からぶつかるだけが戦いじゃない。商人は正面から交渉が決裂したら、条件を変える。場所を変える。時間を変える。戦い方を変えることで——結果を変えられることがある」
「……何が言いたい」
「あんたが四割の力でモトと正面からぶつかったら、負ける。あんた自身がそう認めた。——なら、正面からぶつからない方法を考えよう」
バアルが腕を組んだ。嵐神の表情が、王のそれに変わった。力任せではなく、状況を見極める目。冥界で学んだのかもしれない。力だけでは届かない場所があると。
「具体的には」
「まだ分からない。考える時間をくれ。エルから聞いた話もある。全部を並べて、最善手を探す」
「時間はない」
「知ってる。だから急ぐ」
バアルの目に嵐がある。止められない。止めるべきなのか——それとも、戦いの「方法」を変えるべきなのか。
答えは後者だ。商人は常に後者を選ぶ。
「三日。三日だけくれ」
「……二日だ」
「二日半」
バアルが笑った。嵐の前の、束の間の凪のような笑い。
「商人め」
「商人だから生きてる」
神殿を出た。外の空気は重かった。街の分裂と、これから来る嵐の予感が、空気を鉛のように重くしている。
二日半。バアルが動き出すまで、二日半。
その間に——戦い方を変える提案を形にしなければならない。
足を速めた。帳面の中にはエルの言葉がある。双方向の契約。代価。架け橋。
使えるカードを全て並べろ。商人の仕事だ。
事務所に戻り、大きな紙を広げた。ハダルが用意してくれた紙に、墨で書き始めた。
カード1:エルの「双方向の契約」の概念。——まだ理論段階。具体的な形がない。
カード2:信仰の構造。バアルは豊穣、モトは死。双方が人間の信仰に依存。——だがモトは「適度な人間がいれば十分」と考えている可能性。
カード3:捧げものの印。アシュタルの手首にある印。エルが刻んだもの。何らかの機能があるが、詳細不明。
カード4:ウガルの商人ネットワーク。物流と情報のインフラ。神の世界には直接使えないが、人間の世界での足場になる。
カード5:ヤムの「中立」。海の神は仲裁を提案してきた。利害が一致する範囲で、協力を得られるかもしれない。
五枚。少ない。だが——ゼロではない。
二日半。この五枚のカードで——何ができる。
ペンが紙の上を走った。組み合わせを考える。カード1とカード3を組み合わせれば? 双方向の契約を、捧げものの印を通じて物理的に成立させることは可能か。
分からない。だが——可能性としては残しておく。
紙が墨で黒くなっていった。夜が更けていく。蝋燭の光が揺れた。
二日半。時間との商談が——始まった。




