アシェラの対価
ウガルが見えた時、アシュタルは足を止めた。
丘の上から見下ろす港湾都市。白い建物が斜面に並び、港には商船が停泊している。いつもの光景——のはずだった。
だが、違う。
街が暗い。夕暮れだからではない。灯りが少ないのだ。普段なら港の酒場や市場から漏れる明かりが街を照らし、丘の上からでも活気が見えた。今は——まばらにしか灯っていない。
市場は閉まっているのか。
丘を下り、北門から街に入った。門番がいた。顔見知りのサラムだ。
「おう、アシュタル。戻ったか」
「何があった」
サラムの顔が曇った。
「留守の間にな……色々あった。市場は半分しか開いてない。バアルの神殿の連中とモトの信者が揉めて、通りで喧嘩になった。死人こそ出てないが——」
「死人が出そうな雰囲気か」
「……ああ」
街路を歩いた。普段なら賑わう大通りが静まり返っている。店の大半は板を打ちつけて閉じていた。開いている店も客が少なく、店主が不安そうな顔で通りを見張っている。
数日の不在で街が変わった。いや——変わったのではなく、元々あった亀裂が表面に出たのだ。
バアル派とモト派。
ウガルは元々バアルの信仰が強い都市だった。嵐神は豊穣をもたらし、雨を降らせ、港湾都市の交易を守護する。商人にとってバアルは馴染み深い神だった。
だがバアルが冥界に落ちてから、状況が変わり始めた。バアルの加護が失われ、不作が続き、疫病が流行った。民は不安を募らせた。そこにモトの信者が入り込んだ。
「バアルは終わった」——そう囁く声が、酒場から路地裏に広がっていった。
情報工作だ。モトは直接手を下さない。人間同士を争わせる。信仰の揺らぎこそがモトの武器だった。
港の方に足を向けた。ベン=シャハル商会の事務所がある。まず情報を集めなければならない。何がどう変わったのか。誰がどちら側についたのか。そして——この分裂は修復可能なのか。
事務所に着くと、番頭のハダルが飛び出してきた。
「若旦那! お帰りなさい、いや、大変ですよ——」
「順番に話せ。まず数字から」
ハダルが帳簿を持ってきた。アシュタルは腰を下ろし、数字を追った。
市場の取引量は通常の六割。仕入れは滞り、仕入れ先の三割が「どちらにつくか決まるまで動けない」と回答。港の入出港は通常通りだが、荷下ろしの人足がバアル派とモト派で分かれ、作業効率が半減している。
商人として、この数字の意味は明白だった。
このまま放置すれば、経済が止まる。
「モトの信者は何を要求している」
「バアルの神殿の縮小です。あとは——死者の祭祀をモトの信者が独占的に行う権利。それと、冥界からの『恩恵』を受けるための新しい税の設置」
「税か」
「ええ。モトに捧げものをすれば、死後の安寧が保証されると」
保険だ。死後の安心を売る保険。商人の目で見れば、モトの信者がやっていることは保険事業だった。しかも競合がいない独占市場。死後のことなど誰にも検証できない。返品も苦情も発生しない。完璧な商売だ。
だが——その「保険料」は、ウガルの民の懐から出る。バアルの神殿への奉納もある。二重の負担。民の不満が溜まる。不満は分裂を加速させる。
「バアルの神殿はどう動いている」
「神官長が民心を取り戻そうとしてますが……正直、旗色が悪い。バアルが戻ったのは事実ですが、力が弱っている噂は広まってます。『弱い神を拝んでも意味がない』と——」
帳簿を閉じた。
数字は嘘をつかない。民心はモト側に傾きつつある。恐怖が理由だ。死への恐怖。死後への不安。モトの信者はそれを巧みに利用していた。
窓の外を見た。暗い街路。閉ざされた店。分裂した民心。
エルの山で聞いた「双方向の契約」は、理想としては美しい。だが今、この街で必要なのは理想ではなく——現実の処方箋だ。
街が割れている。この亀裂を放置すれば、バアルとモトが直接衝突した時、人間の街が戦場になる。
それだけは避けなければならない。
「ハダル、明日の朝一番で商人組合の長に会いたい。手配しろ」
「分かりました。でも若旦那、組合長もどちらにつくか——」
「つくもつかないもない。商人は商売が止まることが一番困る。そこだけは全員一致のはずだ」
ハダルが頷いて出ていった。
一人になった事務所で、帳面を開いた。エルの山で書いた走り書きの隣に、ウガルの現状を書き加えていく。
バアル派。モト派。民心の分裂。経済の停滞。信仰の揺らぎ。
そして——この全てが、モトにとっては追い風であること。
人間の恐怖が信仰を生み、信仰がモトの力になる。街が分裂すればするほど、不安が広がれば広がるほど、モトの力は増す。
逆に、バアルの信仰は薄れ、力の回復は遅れる。
完璧な構造だった。商人として——見事だと認めざるを得ない。
帳面を閉じた。
明日から動く。商人組合をまとめ、経済を止めないことが第一だ。分裂は止められなくとも、商売だけは続けさせる。
だが——それは応急処置に過ぎない。根本的な解決には、バアルとモトの問題に直接手を突っ込まなければならない。
帳面を閉じ、蝋燭の光を消しかけて——やめた。暗い部屋で一人でいると、考えが暗い方に転がる。蝋燭の光があれば、少なくとも帳面の文字を見つめることができる。文字を見つめていれば、商人の頭が動く。
ベン=シャハル商会の事務所は、港の近くにある。二階建ての石造りの建物で、一階が倉庫、二階が事務所と住居だ。この街で生まれ育った場所。父が商談をし、母が茶を淹れ、妹が帳簿の数字を練習していた場所。
一族は「生ける死人」の状態のままだ。モトの呪い——いや、捧げものの印の副作用で、アシュタル以外の一族全員が動けなくなっている。解呪の方法は——バアルとモトの問題が解決すれば、自然と解けるとエルは示唆していた。だがいつ解けるかは分からない。
一族を救うために始めた旅だ。それが——いつの間にか、カナアン全土の問題に膨れ上がっている。
「大きくなりすぎだ」
呟いた。商談は規模が大きくなるほど難しくなる。交渉相手が増え、利害が複雑化し、見落としが生まれる。小さな商談なら自分一人で回せるが、大きな商談には——仲間がいる。
仲間。バアルは味方だが動けない。アナトは不在。ヤムは中立。アシェラは情報提供者だが戦力ではない。ハダルは優秀な番頭だが、神の世界には踏み込めない。
結局、一人だ。
一人で——神の戦いを止めなければならない。
窓の外で、犬が遠吠えした。寂しげな声が暗い街路に響いた。
眠らなければならない。明日から本当の戦いが始まる。商人組合をまとめ、経済を維持し、バアルに時間を稼がせ、モトとの交渉の糸口を探す。
身体が資本だ。寝ろ。
帳面を枕元に置き、横になった。眠れるとは思わなかったが——目を閉じた瞬間、意識が落ちた。疲労が限界を超えていたらしい。
夢は見なかった。




