棚卸し
エルの住処を背にした時、山の空気が変わった。
来る時は冷たく澄んでいた空気が、下り道では重く感じた。身体が重いのではない。頭が重いのだ。エルから聞いた言葉が、石のように脳裏に沈んでいる。
双方向の契約。
神と人間の関係を「捧げもの」から「取引」に変える。一方的に差し出すのではなく、双方が何かを預け、何かを受け取る。信仰は対価であり、加護は商品。神は人間を「所有」するのではなく、人間と「取引」する。
理屈としては分かる。商人の息子として育ったアシュタルには、むしろ自然な発想だった。なぜ今までこうなっていなかったのかと問いたくなるほどに。
だが——理屈と現実は別物だ。
足元の石が不安定な山道を、慎重に下りながら考えた。双方向の契約を成立させるためには、まず前提条件が要る。取引が成立する前提——双方に「取引する意志」があること。バアルにはあるかもしれない。しかしモトはどうだ。死の神に、人間と対等に取引する意志があるとは思えない。
そしてもう一つ。取引には「市場」が要る。神と人間が出会い、条件を提示し、交渉する場。そんな場が、今のカナアンのどこにある?
神殿は「捧げもの」の場であって、「取引」の場ではない。祈りは一方通行だ。人間が捧げ、神が受け取る。対話がない。返答がない。条件交渉がない。
それを——変えなければならない。
山道を下りながら、帳面を開いた。エルとの会話を書き留めた走り書きを読み返す。文字が揺れている。山道を歩きながら書いたせいだ。
「お前がそれを形にできるかどうかは、お前次第だ」
エルはそう言った。穏やかな声で。何千年も生きた存在が発する、全てを見通したような声で。
形にする。契約書を起こすように。商品の仕様を決め、価格を設定し、双方の署名を得る。神と人間の——新しい関係の契約書を。
途方もない話だった。
だが途方もない話こそ、商人の腕の見せ所だ。祖父の口癖だった。「馬鹿げた商談ほど利幅がでかい」。もっとも、祖父は神との商談までは想定していなかっただろうが。
足元の石が転がった。蹴った石が斜面を跳ねながら落ちていく。その音が山の静寂に小さく響いた。
ペンダントが胸元で揺れた。エルはペンダントの文字を見て、ほんの一瞬だけ表情を変えた。あの一瞬を、アシュタルは見逃さなかった。商人の目は嘘を見逃さない。
エルは何かを隠していた。全てを話したわけではない。「双方向の契約」の概念は教えてくれた。だがその「代価」については——曖昧にした。
代価。
どんな取引にも代価がある。タダの商品はこの世に存在しない。神と人間の関係を変える。それほどの取引の代価は——
考えるのを止めた。今は考えても分からない。材料が足りない。商人は材料が揃わないうちに結論を出さない。
山道の途中で水筒の水を飲んだ。冷たい水が喉を潤す。エルの住処では水すら飲めなかった。あの場所の空気は人間の身体を維持するのに十分な何かを含んでいて、飢えも渇きも感じなかった。だが山を下り始めた途端、人間の身体が人間に戻った。喉が渇き、腹が減り、足が痛む。
人間だ。当たり前のことだが——エルと対峙している間は忘れかけていた。自分は人間だ。神ではない。力はない。寿命がある。壊れる身体を持っている。
その人間が、神と人間の関係を作り直す。
途方もない。だが——途方もなくないことなど、もうずっとやっていない。アナトと旅を始めた時から、アシュタルの人生は「途方もない」の連続だった。
それより、ウガルだ。
エルの山に来てから何日経った。五日か。六日か。山の中では時間の感覚が曖昧になる。エルの住処は時間の流れそのものが違うように感じた。一日のつもりが三日だったかもしれない。
留守の間に何が起きているか。
バアルの容態。回復は進んでいるのか、それとも後退しているのか。冥界の後遺症は一進一退だと聞いていた。良い日と悪い日がある。アシュタルが発つ前日は「良い日」だったが、翌日もそうとは限らない。
モトの動向。最後に情報を得たのは出発前だ。モトは冥界に引きこもっているように見えたが、あの神は静かに動く。表面に何も見えない時こそ、水面下で何かが進行している。
そして——アナト。
足が止まりかけた。
アナトのことを考えると、頭の中の整理棚が崩れる。商人としての冷静な分析が乱れる。あの人のことだけが、帳簿の行間に収まらない。
アナトは単独行動に出た。行き先も目的も告げずに。あの苛烈な女神が何を考えているのか、アシュタルには分からなかった。分からないことが——苛立たしかった。
苛立ちの正体は分かっている。心配だ。ただそれだけの、単純な感情だ。
だが商人は感情を帳簿に書かない。
山道を下り続けた。標高が下がるにつれ、空気が温かくなっていく。潮の匂いはまだしないが、植生が変わり始めていた。低木が増え、乾いた草が風に揺れている。ウガルの周辺の風景に近づいている。
あと半日。日が落ちる前にはウガルに着ける。
帳面を閉じ、腰の袋にしまった。考えるべきことは山ほどある。エルの言葉。双方向の契約。代価の問題。バアルとモトの勢力均衡。信仰の構造。人間の立場。
だが今、一番考えなければならないのは——ウガルで何が起きているか、だ。
エルとの商談は実りがあった。だがウガルでは、商談どころではない事態が進行しているかもしれない。
足を速めた。
下り道は登りより膝に来る。石が崩れやすく、足首を捻りそうになるたびに体勢を立て直す。だが急がなければならない。嫌な予感がしていた。商人の勘だ。根拠のない、だが無視できない直感。
何かが変わっている。
頭の中は「契約」のことでいっぱいだ。だがウガルでは、契約どころではない事態が進行しているかもしれない。
山道が平坦な場所に出た。少し休もうと足を止めかけて——やめた。休めば考え込む。考え込めば動けなくなる。今は足を動かし続けることが大事だ。身体を動かしている間は、不安に呑まれない。
ペンダントを服の上から握った。祖父の形見。一族の証文。エルとの契約の証拠。
これを持ってエルの前に立った。エルは——認めた。アシュタルの一族がエルと契約を交わしていたことを。その契約の延長線上に、「捧げもの」の印があることを。全ては——計画の一部だった。
怒りが湧いた。利用されている。最初から、全て仕組まれていた。アシュタルが神の世界に巻き込まれたことも、アナトと出会ったことも、冥界に行ったことも——エルの計算に含まれていたのかもしれない。
だが怒りは後だ。今は——使えるものを使う。仕組まれていようが、利用されていようが、目の前の問題は変わらない。一族を救い、ウガルを守り、バアルとモトの争いに決着をつける。
それが——アシュタルの商談だ。
山の稜線が夕日に染まっていた。赤い光が岩肌を照らし、長い影が山道に落ちている。美しい光景だったが、その赤が——血の色に見えた。
気のせいだ。
そう自分に言い聞かせながら、アシュタルは山を下り続けた。遠くにうっすらとウガルの街並みが見え始めていた。白い建物が夕日を反射している。あの街に、バアルがいる。一族がいる。守るべきものがある。
歩き続けた。膝が痛んだが、構わなかった。




