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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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空白の夜

 エルが長い沈黙に入っていた。


 粘土板に目を落としている。古い板。最初のルールが書かれた板。消えかけた文字を、老いた指がなぞっている。何度も。同じ場所を。何千年前に自分で刻んだ文字の痕跡を、繰り返し指先で確かめるように。


 アシュタルは待った。商人は沈黙を恐れない。交渉の中で最も重要な情報は、沈黙の中にこそある。相手が黙った時、相手の頭の中で何が動いているかを読む。それが商人の仕事だ。沈黙の長さ、沈黙の質、沈黙の中の微かな仕草——全てが情報だ。


 蝋燭の蝋が溶けて、石のテーブルに白い筋を作っていた。いつの間にか日が傾いていた。窓から差す光の角度が低くなっている。商談を始めてから何時間が経ったのだろう。半日か。もっとか。茶は何杯飲んだか分からない。


 エルの沈黙が——長い。


 これまでの沈黙とは質が違った。考えている沈黙ではない。答えを組み立てている沈黙ではない。これは——迷っている沈黙だ。言うべきかどうかを迷っている。何千年もの間、誰にも言わなかったことを、今ここで言うかどうかを。


 待った。急かさない。商人は相手のペースを尊重する。急かして得られた答えは値打ちが低い。


 エルがようやく口を開いた。


「補填などできん」


 声が——初めて、重かった。


 穏やかさは消えていない。だがその穏やかさの下に、これまでなかったものがある。重力のような。底の見えない深さのような。何千年もの時間を生きた存在が、その時間の全てを背負って発した声。


「計画は半ば失敗しておる」


 アシュタルの筆記具が止まった。


 帳面の上で、インクの点が一つ、にじんだ。


「架け橋は機能した。じゃが、不完全じゃった。導管としての設計は動いたが、想定した通りには動かなかった。バアルとモトの均衡を保てなかった。バアルが冥界に囚われた時、導管は暴走し、一族は苦しんだ」


 エルの声が、記録者の声に戻っていた。だが——揺れている。微かに。記録者が自分の記録を読み上げる時に、事実の重さに声が揺れている。


「これらは——」


 エルが顔を上げた。灰色の瞳が、初めて——揺れていた。穏やかさの仮面の下で、何かが動いていた。後悔か。悔恨か。あるいは——もっと根源的な何か。自分が作った世界を、自分では直せないという——無力感か。


「私の力では修正できん」


 創造神が。


 世界を作った神が。


 失敗を認めた。


 答えを持っていない、と。


 石の家の中の空気が、一気に重くなった。粘土板の棚が壁を覆い、その全てが世界の記録であり、その全てを書いた神が——今、「修正できない」と言った。記録者が自分の記録の誤りを修正できない。設計者が自分の設計を直せない。


 アシュタルは固まっていた。帳面を握ったまま、動けなかった。


 想定していなかった。この展開を。


 エルは全知だと思っていた。全てを見通し、全てを計画し、全てを制御している最高の策士だと。商談の相手として手強いが、最後には答えを持っている相手だと。条件交渉が難航しても、最終的にはエルが解決策を提示してくれると。


 答えがない。


 この世界を作った神が、答えを持っていない。


 長い沈黙が落ちた。


 川の音。蝋燭の炎が揺れる音。粘土板の棚の奥から、風が通り抜ける微かな音。全てが遠く聞こえた。


 通常の商談なら、ここで決裂する。相手に支払い能力がないなら、取引は不成立だ。テーブルを立って帰る場面だ。見積書を回収し、名刺を引き上げ、「またご縁がありましたら」と言って扉を閉める。


 だが。


 帰ってどうする。帰っても答えはない。他に交渉相手はいない。エルが最後の一人だ。


 商人は、決裂の中にこそ商機を見出す。


 エルが顔を上げた。灰色の瞳が、真っ直ぐにアシュタルを見た。


「お前に問う」


 声の質が変わっていた。これは問いかけではなく——委託だ。託すための言葉だ。


「商人ならば——どうする?」


 問いが返ってきた。


 損害賠償を請求しに来た。条件を提示した。対価を問われた。そして——相手が「補填できない」と言った。


 これは「条件交渉」ではなくなった。「共同問題解決」に変わった。売り手と買い手が対立する構図から、共に問題に向き合う構図に。商人の用語で言えば——「ジョイント・ベンチャー」だ。利害の対立ではなく、利害の共有。


 創造神が沈黙した。答えがないのだ。


 この世界を作った神が、答えを持っていない。


 だが——商人は沈黙の中にこそ商機を見出す。


 帳面を開いた。白いページ。ここに何を書く?


 創造神の沈黙。


 その意味が——今、分かった。


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