拒絶
商談の第七段階——「条件交渉」。
アシュタルの表情が変わっていた。怒りの後の冷静さ。刃物を研ぎ終えた後のような、静かで鋭い集中。目の奥に怒りの残り火があるが、それは制御されている。薪の下で燃える熾火のように——熱いが、暴れない。
帳面の新しいページに「条件」と書いた。文字は安定している。筆圧も適切だ。もう手は震えていない。
「設計の欠陥がありました。一族が苦しみました。これは事実です」
商人の口調に戻っていた。感情の残滓はない。あるのは——取引の論理だけだ。事実と条件。数字と対価。商人の世界の言葉で、神と交渉する。
「事実に対して、損害賠償を請求します」
エルの眉が上がった。今日一日の中で、最も大きな反応だった。穏やかな微笑みの形が、一瞬だけ崩れた。すぐに戻ったが——崩れたことをアシュタルは見逃さなかった。
「賠償?」
「はい。一族の損害を、どう補填するつもりですか」
創造神に損害賠償を請求している。
自分でも理解していた。前代未聞だということは。神の世界に「損害賠償」という概念があるのかすら分からない。人間の法律が神に適用されるのかも分からない。だが——ないなら作ればいい。概念がなければ概念を作る。それも商人の仕事だ。新しい市場を開拓するのと同じだ。かつてウガルの商人たちは、海の向こうに市場がないと言われた。行ってみたら市場はなかった。だから作った。商人とはそういう生き物だ。
「面白いことを言う」
エルが呟いた。怒りではない。感嘆だ。だが感嘆で誤魔化されるつもりはない。
「面白いかどうかは問題ではありません。正当かどうかが問題です。設計上の欠陥によって顧客が損害を受けた場合、製造者は補填の義務を負う。ウガルの商人ギルドの規約にはそう書いてあります」
「商人ギルドの規約を、創造神に適用するのかのう」
「取引のテーブルに着いた以上は適用します」
即答した。エルが——微かに笑った。だが笑いの後で、灰色の瞳が深くなった。考えている。
「何を求める?」
「三つ」
帳面に書きながら、指を立てた。一本。
「一つ目。一族の症状の完治。弟の味覚を戻してください。父の発作を止めてください。一族全員の体を、架け橋の副作用から解放してください。導管機能を維持したまま副作用だけを除去できるなら、それが最善です。できないなら、導管機能ごと除去しても構いません」
エルは沈黙している。灰色の瞳がアシュタルの帳面を見ている。
二本目の指。
「二つ目。架け橋の設計の修正。バアル不在時に導管が暴走しない仕組みに改修してください。リスクを一族だけに負わせる設計は欠陥です。修正するのは設計者の義務です。水路の設計を間違えた技師が水路を直すのと同じです」
エルの目が微かに動いた。だが口は開かない。
三本目の指。
「三つ目。バアルとモトの争いへの介入。あなたが隠居している間に世界は壊れかけました。審判者の不在がここまでの混乱を招いた。完全な復帰でなくても構いません。せめて——均衡を保つための最低限の介入を。均衡が崩れれば架け橋も暴走する。一族の安全は均衡の上に成り立っています」
帳面をエルの方に向けた。三つの条件が整然と書かれている。番号が振られ、具体的な内容が記述されている。
創造神を相手に「見積書」を出している。
前例がない。だからこそ——面白い。自分でも思った。怒りの後に、この感覚が来る。面白い。未知の取引だ。誰もやったことのない商談だ。商人の血が騒ぐ。
エルが帳面を見ている。三つの条件を読んでいる。長い沈黙。川の音だけが響いている。二本の川が合流する音。穏やかだが、止まらない。
「条件は理解した」
エルが言った。声が——重い。今日一日の中で、最も重い声だった。穏やかさの底にある岩盤のような重さ。
「じゃが——対価は何じゃ?」
アシュタルの筆記具が止まった。
「取引には双方の提示が必要じゃろう。お前は三つの条件を出した。では——お前は何を差し出す? 人間が神に差し出せるもの。それは何じゃ?」
答えが出なかった。
口を開きかけて、閉じた。嘘は言えない。「何でも差し出します」と言えば、それは白紙委任状だ。商人は白紙委任状にサインしない。中身の分からない契約に署名するのは素人だ。かといって「分かりません」では交渉が止まる。
帳面を見つめた。空白のページが見つめ返してくる。
人間が神に差し出せるもの。信仰か。——それでは一方通行に逆戻りだ。命か。——それこそ「捧げもの」だ。何も変わらない。
答えが——まだない。
創造神に損害賠償を請求する。前例がない。だからこそ面白い。
だが問われた。「対価は何だ?」。
人間が神に差し出せるもの——それが見つからなければ、交渉は成立しない。




