商人の目
沈黙が続いていた。
アシュタルの呼吸が浅い。帳面を握る手が震えている。石のテーブルの上の茶は冷めている。湯気はとうに消え、琥珀色の液体の表面が鏡のように蝋燭の光を映していた。
エルは新しい茶を淹れようともしない。ただ——穏やかに、自分の茶を飲んでいる。何も起きていないかのように。部屋の空気が張り詰めているのに——この老人だけが、平穏の中にいる。
その穏やかさが、最後の一押しになった。
「弟は味覚を失いました」
声が震えていた。椅子から立ち上がっていた。いつ立ったのか、自分でも分からない。膝が椅子を押し退け、石の床に椅子の脚が擦れる音がした。
「十四歳の子供です。朝起きたら、何を食べても味がしなくなっていた。母が作った粥の味が分からないと泣きました。あの子は甘いものが好きだった。蜂蜜を舐めても、干し葡萄を噛んでも、何の味もしないと——泣いた子供の顔を、あなたは想像できますか」
エルは答えない。灰色の瞳がアシュタルを見ている。穏やかに。静かに。何も変わらない目で。
「父は血を吐きました」
声が大きくなっている。自分で制御できていない。帳面を持つ手が振るえ、ページがばさばさと揺れている。
「商談の最中に倒れました。取引先の主人が驚いて水を持ってきた時には、父は床に倒れていました。口の周りが真っ赤でした。母が駆けつけた時には——布で拭いても拭いても血が止まらなかった」
声が裏返った。
「祖父も同じでした。祖父の祖父も。一族は代々——原因も分からず苦しんできました。呪いだと言われました。罰だと言われました。前世の罪だと言われました。何も分からないまま、苦しんで、祈って、それでも治らなくて——」
帳面がテーブルに叩きつけられた。乾いた音が石の壁に跳ね返り、粘土板の棚を震わせた。何枚かの粘土板がずれ、微かな音を立てた。
「それが——あなたの実験の『結果』だと」
怒りが溢れていた。抑えきれなかった。三百年分の苦しみの重さが、胸の中で爆発していた。帳面を叩きつけた手が痛い。だが痛みなど感じない。怒りの方が大きい。
——アナトのことも。
一瞬、頭をよぎった。彼女の苦しみも。バアルを失い、禁忌を犯してまで取り戻そうとした戦争の女神の。あの強くて不器用な神の。剣を握る手が震えていたのを知っている。強がりの下に涙を隠していたのを知っている。彼女の苦しみも、全てがこの老人の設計の中に——
飲み込んだ。
今はそれを口にするべきではない。アナトの苦しみは、アナトのものだ。勝手に代弁する権利はない。彼女は自分で戦った。自分で選んだ。その選択を、アシュタルが横から「あなたも被害者だ」と言うのは——違う。
呼吸が荒い。
深呼吸した。一回。胸が痛い。怒りで肺が圧迫されているようだ。
二回。少し楽になった。
三回。視界が戻った。
テーブルに叩きつけた帳面を拾い上げた。ページが折れていた。丁寧に伸ばした。折れた角を指で整えた。帳面は大事にしろ、と父が言っていた。帳面は商人の命だ。
椅子を元の位置に戻した。座り直した。背筋を伸ばした。
「失礼しました」
声は、まだ僅かに震えていた。だが——制御されていた。声の震えを止めることはできなかったが、声の方向は制御できた。怒鳴るのではなく、語りかける声に戻した。
「では、交渉を続けましょう」
エルの目が変わった。
穏やかさの奥に——何かが光った。驚きとは違う。感嘆とも違う。もっと深い何か。この老人が何千年もの間、見たことのなかった何かを見たような——そんな目だ。人間を「作品」ではなく「対等な存在」として見た瞬間の目。
「面白い」
エルが呟いた。声の温度が変わっていた。穏やかさの下に——敬意がある。
「怒りを見せ、それを収め、交渉に戻る。三百年前の商人にはできなかったことじゃ」
三百年前の祖先——タグム・ウガリは、怒りを制御できなかったのだ。感情に飲まれたのだ。そして——どうなった? 何を失った? 何を妥協した? 「世代交代」の説明で納得したのは——怒りで冷静さを失い、判断力が鈍ったからか。
聞きたかった。だが今は聞かない。今は——交渉の続きだ。
「お褒めの言葉として受け取っておきます」
軽口が出た。緊張を誤魔化す癖。だが今回は——緊張だけではない。怒りの残滓を洗い流すための軽口だ。声は安定していた。手の震えも収まっていた。
帳面の新しいページを開いた。折れていないページ。白い紙面。ここから——新しい交渉が始まる。
エルの目が変わった。この老人は——今の爆発と立て直しに、何を見たのか。
商談は——新しい局面に入った。




