アナトの選択
帳面に「双方向の契約」と「実験」の文字が並んでいる。
二つの言葉の間に——怒りの種がある。
商談の第六段階。感情の衝突。父はこう教えた。「感情が動いた時こそ冷静になれ。だが感情を完全に殺すな。感情は情報だ。自分の怒りの原因を分析しろ。そこに交渉材料がある」。
分かっている。分かっているが——
「実験」という言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。
実験。
自分の一族は——実験台だったのか。
弟のヤリムが味覚を失った朝を覚えている。食卓に並んだ朝食を口に入れて、「兄ちゃん、味がしない」と言った弟の顔。まだ十四歳だった。目が丸くなって、口の中のものを何度も噛み直して、それでも味がしなくて——泣いた。母が泣いた。父が拳を握りしめた。医者を呼んだ。祈祷師を呼んだ。誰にも原因が分からなかった。
原因はここにあった。
この穏やかな老人の「実験」の副作用だった。
父の血。発作のたびに口から血を流す父の姿。商談の途中で倒れ、取引先の奥の部屋に担ぎ込まれた夜。母が駆けつけた時には、父の口の周りは乾いた血で赤黒くなっていた。母は泣かなかった。泣く代わりに祈った。一晩中、祈り続けた。
原因はここにあった。
祖父の発作も。祖父の父の早逝も。一族が代々、原因も分からず苦しんできた全ての症状。体の不調。感覚の異常。突然の発作。時には若くして命を落とす者もいた。「一族の呪い」と囁かれた。呪いではなかった。「実験」の結果だった。
全てが——この石の家で結ばれた契約の、副作用だった。
副作用。商人の言葉で言えば「隠れたコスト」だ。契約書に書かれていないコスト。取引が成立した後で初めて顕在化するコスト。タグム・ウガリは知っていたのか? 一族が代々苦しむことを。知っていて契約したのか、知らずに契約したのか。
どちらにしろ——苦しんだのは子孫だ。契約を結んだ者ではなく、契約を受け継いだ者が代価を払い続けた。
エルの顔を見た。
穏やかな目。灰色の瞳。微笑み。何千年もの時間を刻んだ皺の中に、穏やかさだけがある。
謝罪の色はない。
「一族の苦しみは、実験のコストだったと?」
声が震えていることに、自分で気づいた。帳面を握る手が白い。筆記具の木の軸が軋んでいる。
エルが答えた。穏やかに。淡々と。まるで粘土板の記録を読み上げるように。
「結果じゃ。お前がここに来たこと自体が結果じゃ」
結果。
三百年分の苦しみが。弟の味覚が。父の血が。母の祈りが。一族の涙が。
「結果」の一言で処理された。
コストですらなかった。結果。起きたことは起きた。それだけだ、とでも言うように。損害額を問われて「損害ではない、結果だ」と答える取引先のようなものだ。
謝罪も弁解もなかった。「仕方がなかった」とも「苦渋の選択だった」とも言わない。「申し訳ないと思っている」とも。ただ「結果」と。事実の陳述。感情を挟まない、記録者としての言葉。
神と人間の価値観の断絶を、この一言で見せつけられた。
三百年は、この老人にとっては——まばたきほどの時間なのかもしれない。弟の味覚も、父の血も、人間の苦しみの全ても、創造神の時間感覚の中では——取るに足らない一瞬なのかもしれない。数千年の帳簿の中の、一行にも満たない記述。
結果。僕は——結果なのか。
帳面を握る手が白い。指が痛いほどに握りしめている。
怒りが込み上げている。胸の奥から。腹の底から。喉の奥が焼けるように熱い。目の奥が熱い。泣きそうなのではない。怒りで体温が上がっているのだ。
だが待て。
感情に飲まれるな。
深呼吸した。一回。
商人は感情で交渉を壊さない。怒りは情報だ。怒りの原因を分析し、交渉材料に変えろ。父の教えだ。「怒ったら負けだ」と。
もう一回深呼吸した。
帳面を開いた。「感情の制御」と書こうとして——書けなかった。手が震えすぎていた。筆記具の先が紙の上で引っかかり、文字にならない線を引いた。
だめだ。制御できていない。
エルの顔を見た。穏やかに茶を飲んでいる。何事もなかったかのように。三百年分の苦しみを「結果」と呼んだ後で——茶を飲んでいる。
怒りが渦を巻いている。だがその渦の中心に——冷たい核がある。商人としての訓練が作った核だ。どんなに感情が荒れても、この核だけは壊れない。壊れたら商人でなくなる。交渉できなくなる。交渉できなくなれば、一族を救えない。
まだだ。まだ耐えろ。ここで爆発したら交渉が壊れる。交渉が壊れたら一族を救えない。一族を救えなければ、ここに来た意味がない。四日間の山歩きが無駄になる。アナトと別れて一人で来た意味が無くなる。全てが無駄になる。
帳面を抱えた。商人の武器を手放すな。帳面がある限り、まだ戦える。
爆発しそうだ。だが——まだ。まだだ。




