神々の噂
帳面を見返した。「世代交代」と書いた文字を見つめる。
何かが合わない。
商人が契約書の矛盾を見つけた時の感覚。数字が合わない帳簿を前にした時の、胃の底がざわつく不快感。全体の論理は通っているように見える。だが一箇所だけ——歯車が噛み合っていない場所がある。それを見つけるまで、契約書にはサインしない。
世代交代。
エルの力が衰える。審判者がいなくなる。だからバアルかモトに継がせる。
だが。
「一つ、お聞きしてもいいですか」
帳面から顔を上げた。エルは茶を飲んでいた。何杯目だろう。この老人は茶が好きなのか、それとも沈黙を埋める道具として茶を使っているのか。おそらく後者だ。茶を飲む動作は「考えている」という意思表示になる。商人もよく使う手だ。
「世代交代を望んでいるなら——バアルかモトに審判者を継がせればいい。それだけのことでは?」
エルが茶を飲んだ。沈黙。だが沈黙の質が違う。考えている沈黙ではない。こちらの言葉を待っている沈黙だ。「続けろ」と言っている。
「ですが、バアルとモトは当事者です」
言葉を組み立てながら、頭の中で論理を走らせた。帳面に書きながら考える。書くことで思考が整理される。商人の帳面は単なる記録ではない。思考の道具だ。
「バアルとモトの争いの審判を、バアルかモトにやらせるのですか? それは——裁判官と被告が同一人物の裁判です。成立しません」
商取引の基本原則だ。利害関係者は仲裁者になれない。取引の当事者が同時に審判を務めれば、公正さは担保されない。そんな取引は市場で信用を失う。ウガルの商人ギルドには仲裁人制度がある。取引で紛争が起きた時、当事者以外の第三者が仲裁に入る。当事者が仲裁人を兼ねることは絶対に認められない。
「バアルは嵐の神です。モトは死の神です。どちらも均衡の当事者であって、均衡を管理する立場にはなれない。サフォンの港で、売り手が同時に市場の管理人を務めることが許されないのと同じです」
エルは沈黙していた。茶の杯を両手で包み、アシュタルを見ている。灰色の瞳が——変わっていた。試す目ではない。測る目だ。この人間がどこまで辿り着くのかを、見極めようとしている。
「世代交代を望んでいない——のではないですか」
声が静かになった。核心に近づいている手応えがある。糸を手繰っている感覚。糸の先に何があるか分からないが、糸を手放してはいけない。
「バアルにもモトにも審判者は務まらない。当事者だからです。では誰が継ぐのですか。アナトですか。——いいえ、アナトはバアルの姉であり、バアル側の当事者です。ヤムですか。——いいえ、ヤムはバアルと対立した過去がある。利害関係者です。アシェラですか。——アシェラはあなたの妻であり、全ての神に対する利害関係がある」
帳面に名前を書き出していた。バアル。モト。アナト。ヤム。アシェラ。全ての名前の横に「×」を書いた。
「公正な審判者になれる神が——いない」
長い沈黙が落ちた。
川の音が聞こえている。二本の川が合流する音。穏やかだが、絶え間ない。
エルが口を開いた。
「お前は三百年前の祖先より鋭い」
声が変わっていた。試す声ではない。認める声だ。値踏みが終わり、評価が確定した時の声。商人なら聞き慣れた音だ。品物を何度も手に取り、ひっくり返し、光に透かし、最後に「これは本物だ」と言う時の声。
心臓が跳ねた。だが表情は動かさなかった。商人は褒められた時こそ警戒する。褒め言葉は値引きの前触れだ。
「タグムも賢い男じゃった。じゃが彼は『世代交代』の説明で納得した。お前は——納得しなかった」
「商人は数字が合わない契約書にはサインしません」
即答した。
「そうか」
エルが杯をテーブルに置いた。乾いた音。姿勢が変わった。微かに。だが確実に。背筋がわずかに伸び、灰色の瞳の光が——変わった。
試す目から。
対等に向き合う目に。
「商人。ここからが本題じゃ」
空気が変わった。石の家の中の空気が、密度を増した。粘土板の棚の間を風が通り抜けるような——いや、風ではない。神力だ。エルの存在そのものが放つ力が、僅かに強くなった。威圧ではない。本気の表れだ。
エルの声が——重くなった。穏やかさは消えていない。だがその穏やかさの下に、創造神としての威厳が——初めて顔を覗かせた。何千年もの間、この世界の全てを見てきた者の重み。
エルが頷く。
この老人を相手に——推論が通った。
「ここからが本題だ」。
真の目的が——明かされる。
帳面の新しいページを開いた。筆記具を握り直した。手は震えていない。
さあ。本題を聞こう。




