ヤムの再来
扉に手をかけようとした瞬間、声が聞こえた。
「人間がここに来たのは三百年ぶりじゃ」
穏やかな老人の声だった。だが穏やかさの奥に、途方もない重みがある。石の壁を通して聞こえてくる——扉は閉じたままだ。声がどこから来ているのか分からない。壁そのものが語りかけてくるような響き方だった。
心臓が跳ねた。だが手は止めなかった。商人は最初の声で怯んだら負けだ。市場で初めて値段を聞いた時に動揺を見せれば、その時点で交渉は負けている。
「三百年前にも、人間が来たのですか」
質問を質問で返した。交渉の初手としては基本中の基本だ。相手の情報を引き出し、こちらの情報は出さない。先に手札を見せた方が不利になる。父がそう教えた。「初手は必ず質問で返せ。答えるのは二手目以降でいい」と。
石の壁の向こうで、微かな笑い声がした。息を漏らすような、枯れた笑い。だが不快ではない。むしろ——楽しんでいるような響きがある。
「お前、名は何という」
「アシュタル。ベン=シャハル商会のアシュタルです。ウガルの商人です」
名乗りは惜しまない。名前は名刺だ。名刺を出さない商人は信用されない。商会名を添えるのも基本だ。個人ではなく商会の看板を背負っていることを示す。相手に「この取引には組織がある」と伝える効果がある。
「何をしに来た」
「取引をしに来ました」
沈黙があった。一拍。二拍。三拍。石の壁の向こうで何かが動く気配がした。衣擦れか。椅子を引く音か。声の主が言葉を吟味しているのか、それとも——試しているのか。沈黙の長さも情報だ。即答しない相手は、考えているか、試しているか、どちらかだ。
「取引? 人間が創造神に取引?」
声に驚きはなかった。むしろ——興味がある。商人の耳は声の温度を聞き分ける。冷たい拒絶でも、熱い怒りでもない。温かい好奇心。この声の持ち主は、アシュタルの言葉を面白がっている。
面白がらせているなら、脈がある。商人にとって最悪の反応は無関心だ。怒りでも驚きでも、何かの感情が動いていれば——交渉の糸口になる。
「面白いのう。三百年前の人間も同じことを言った」
心臓が跳ねた。
三百年前の人間。
ここに来て、同じように「取引をしに来た」と言った人間。それは——祖先か。タグム・ウガリ。一族最古の帳簿「血の誓約」を書いた人物。一族の始祖。あの判読しにくい古いウガリット文字で記された契約書を残した人物。
質問したかった。三百年前の人間とは誰だ。何を取引した。結果はどうなった。一族の「血の誓約」との関係は。ペンダントの文字は何を意味するのか。喉元まで出かかった質問を飲み込んだ。まだだ。情報をただで渡すな。こちらが「知りたい」と見せた瞬間、向こうに交渉材料を与えることになる。知りたいものほど、高く売りつけられる。
「三百年前のお客様が満足されたなら、私も良い取引ができそうですね」
軽口だった。緊張を誤魔化す癖が出た。膝が微かに震えていたが、声には出さない。だが軽口には軽口の効用がある。場の空気を和らげ、相手の反応を見るための道具だ。軽口に笑う相手は話が通じる。怒る相手は権威を重んじる。無視する相手は——そもそも取引の気がない。
扉の向こうで、また笑い声がした。今度は先ほどよりはっきりと。
笑った。脈がある。
「入れ。茶を出そう」
扉が内側から開いた。ゆっくりと。木が軋む音がした。乾いた木の匂いと、粘土板の匂いが一緒に流れ出てくる。
開いた。
だがアシュタルは一歩を踏み出す前に気づいていた。エルは驚いていない。アシュタルの来訪を知っていた。「三百年ぶり」と言ったが、「予想外」とは言わなかった。待っていたのだ。三百年ぶりの人間の訪問を——予期していた。
知っていて待っていた。
それは「歓迎」とは少し違う。商人の勘がそう告げている。客を待っていた店主は、客が来る前から値段を決めている。こちらがテーブルに着く前に、向こうはもう計算を終えている。
つまり——この商談は、アシュタルが思っている以上に、相手の土俵で行われる。
覚悟を決めた。足を踏み入れた。石の床は冷たく、空気は乾いていた。暗い室内に、粘土板の匂いが充満している。蝋燭が一本、奥の方で灯っている。
三百年前の人間——祖先か。
エルはアシュタルの来訪を知っていた。
扉が開いた。中に入る。
世界を作った神と——商談が始まる。




