アシュタルの焦り
山を越えた先に、谷があった。
四日目の夕方。脚は棒のようになっていたが、稜線を越えた瞬間に疲労を忘れた。眼下に広がる光景が、足を止めさせたからだ。
二本の川が、異なる方向から流れてきていた。
北東からの川は青みがかった透明な水で、岩肌を削りながら勢いよく下ってくる。川幅は人の背丈ほどだが、白い泡を立てて走る水は冷たそうだった。北西からの川はやや白濁した雪解け水で、こちらは緩やかに蛇行しながら谷底を目指している。川底の石が透けて見えるほどの浅さだが、流れは止まらない。二本の川は谷の底で一つに合流し、そこから南へ向かって一本の流れになっていた。
アシェラが言った通りだ。「二つの河の源流が交わる場所」。
合流点に、石の家が建っていた。
質素だった。壮大な宮殿を想像していた自分が恥ずかしくなるほどに。灰色の石を積んだだけの小さな家。壁は丁寧に積まれているが装飾はない。屋根には苔が生え、木製の扉はわずかに傾いている。窓は二つ。小さく、布がかけてある。神殿どころか、裕福な農家にも劣る佇まいだった。
ウガルの港で見てきた神殿を思い出した。バアルの神殿は黄金の屋根を持ち、石柱が何十本も並ぶ巨大な建築物だった。エルの神殿も——閉鎖される前は——白い石と銀の装飾で飾られた荘厳な建物だったと聞いている。
だがここには荘厳さのかけらもない。質素。ただ質素だ。
ただし——庭が異質だった。
粘土板が積まれていた。無数に。家の周囲を取り囲むように、石の棚が何列も並び、その全てに粘土板が整然と収められている。大きなもの、小さなもの、厚いもの、薄いもの。日に焼けて白くなったもの、まだ湿り気を感じるほど新しいもの。夕陽が粘土板の表面に当たり、刻まれた楔形文字が金色に光っていた。
図書館だ、と思った。
いや——記録庫か。世界の記録が、ここにある。ウガルの商人ギルドの帳簿保管庫を見たことがあるが、あれの何十倍もの規模だ。帳簿保管庫は商取引の記録を保管する場所だが、ここにあるのは——世界そのものの記録だ。
谷への下り道を慎重に降りた。石が脆く、一歩ごとに小石が崩れ落ちる。近づくにつれ、空気が変わった。密度が増す感覚。ヤムの海域に入った時に似ている——神域特有の、空気そのものが重くなる感覚。だがヤムの領域が荒々しい潮の圧力だったのに対し、ここの空気は穏やかだった。古い書庫に入った時のような、乾いた紙と埃と時間の匂い。ただし、途方もなく古い。千年どころではない。何千年もの時間が、空気に溶けている。
粘土板の一枚一枚に、文字が刻まれていた。
歩きながら目を走らせた。読める文字もあれば、見たことのない文字もある。ウガリット文字に似た書体、全く異なる書体、絵のような記号。言語が違う。時代が違う。一つの棚の中だけで何百年分の記録があるように見えた。棚の数を数えようとして、すぐに諦めた。数えきれない。何千。いや——何万かもしれない。
創造から現在まで。世界で起きた全ての出来事が、ここに記録されているのだ。
石の家の前に立った。
扉は木製で、取っ手もない。押せば開くのだろう。だが開けない。まだ開けない。
深呼吸した。山の空気が肺を冷やした。
これから——世界を作った神と商談する。
帳面を握りしめた。革の表紙がすり減った、使い込んだ帳面。商人の武器はこれだけだ。剣もない。盾もない。腕っぷしもない。走って逃げる脚力すら、四日間の山歩きで削られている。あるのは帳面と筆記具と、口一つ。
足りるのか。
アナトがいれば心強かったが、今はいない。一人だ。自分で選んだ一人旅だ。
いや、足りなくても行くしかない。ここまで来た。一人で。護衛なしで山を越え、四日間歩き続けてここに着いた。引き返す理由がない。
粘土板の山が夕陽に照らされていた。何千年分の記録。何万枚の文字。世界の全ての始まりが、この静かな場所で書かれた。
扉に手を伸ばした。
扉の向こうに——創造神がいる。




