死神の弁舌
山道の三日目。昼の休憩。
標高が上がり、空気が変わっていた。ウガルの潮風ではない。冷たく澄んだ、乾いた空気。肺に吸い込むと喉の奥が冷える。山の空気は海の空気とは別の生き物だった。
岩棚に腰を下ろし、ペンダントを首から外した。
祖父の形見。銅製の小さな板に紐を通したもの。長い年月で角が丸くなり、表面は摩耗して元の模様がほとんど見えない。幼い頃、祖父の胸元でいつも揺れていたのを覚えている。「これは何」と聞いたら、祖父は笑って「お守りだよ」と答えた。
お守り。
本当にそれだけだったのか。
山の光の中でペンダントを見た。ウガルの薄暗い部屋では見えなかったものが、高地の澄んだ光の下では見えることがある。摩耗した銅の表面に——文字があった。
ほとんど消えかけていた。指でなぞると微かに凹凸を感じる。刻まれている。だが摩耗がひどく、肉眼ではほとんど判読できない。
水筒の水を少しかけ、布で丁寧に磨いた。
文字が浮かび上がった。
ウガリット文字だった。
だが——古い形式だった。現在ウガルで使われている文字とは少し異なる。線の引き方が違う。角度が深く、曲線が少ない。古い書体。何百年も前の——あるいはそれ以上前の文字。
心臓が跳ねた。
帳面を取り出し、ペンダントの文字を丁寧に書き写した。一文字ずつ、摩耗した凹凸を指でなぞりながら。全ての文字が読めるわけではない。三分の二は摩耗で失われている。だが残った文字を——
この書体を、見たことがある。
一族の帳簿——「血の誓約」。
一族最古の記録だ。誰が書いたかも分からない古い契約書。アシュタルの祖先が何者かと交わした取引の記録。文字は古く、内容の大半は判読できなかったが、書体だけは覚えていた。角度の深い、曲線の少ない、古いウガリット文字。
同じ書体だ。
ペンダントの文字と、「血の誓約」の文字が——同じ書体で書かれている。
偶然か。同じ時代の文字だから書体が似ているだけか。
いや。
帳面に書き写した文字を見つめた。全ては読めない。だが一つだけ——一つだけ、読める単語があった。
誓約。
この文字は「誓約」を意味している。
ペンダントは装飾品ではなかった。
契約の証拠品だ。
祖父はこれを「お守り」と呼んだ。だがお守りではない。誓約の証。誰かと誰かが交わした契約を証明する物品。商人なら馴染み深い概念だ。取引の証拠を形にしたもの。印章。封印。証文。
このペンダントは——証文だ。
誰と誰の?
一族と——誰か。
エル、か。
手が震えた。推測に過ぎない。だが——「捧げもの」の印を刻んだのがエルなら、一族との契約もエルが結んだ可能性がある。そしてその契約の証拠がこのペンダントなら——
エルに会えば、分かる。
ペンダントを首にかけ直した。冷えた銅が胸元に触れ、体温で温まっていく。祖父の形見。一族の証文。契約の証拠。
この文字は、一族の帳簿「血の誓約」と同じだ。
祖父の形見に——何が刻まれている?
答えは、山の向こうにいる。
立ち上がった。荷物をまとめ、再び山道を登り始めた。足取りが変わっていた。疲労は消えていないが、目的が明確になった。エルに会う理由が一つ増えた。
商談の材料が揃いつつある。信用。名刺。話題。交渉材料。
そして今——証拠品。
商人は証拠品を持って商談に臨む。品物の真贋を証明し、取引の正当性を担保する。このペンダントは——アシュタルの一族とエルの間に「取引があった」ことの証拠だ。
取引があったなら——続きがある。
契約には必ず続きがある。更新、改定、解約。どれであっても——テーブルに着く理由になる。
山道を登った。足元の石が崩れやすくなっていたが、構わず登った。北の山。源流の交差点。エルの住処。
答えは——もうすぐそこにある。




