冥界の使者
商人の道を歩いていた。
ウガルから北への交易路だ。この道は何度も通ったことがある。父に連れられて北の街へ商談に行った時、一人で初めて単独交渉に出た時。足元の石は見慣れたものだったし、道端の目印も覚えていた。三叉路の枯れた樫の木。崩れかけた石積みの橋。羊飼いの小屋の跡。
だが一人で歩くと、景色が違った。
鳥の声が大きく聞こえた。風の音が耳に入り込んだ。自分の足音が——やけに響いた。普段なら気にならない音が、一つ一つ意識に引っかかる。護衛がいない。話し相手がいない。注意を向ける対象が自分の思考しかないから、外の音が全て大きくなる。
意外な自由もあった。
休憩のタイミングを自分で決められる。道の選択を誰にも相談しなくていい。速度を他人に合わせる必要がない。一人の旅は——効率がいい。
二日目の昼過ぎ、交易路沿いの村に着いた。
小さな村だった。十数軒の家と、井戸と、粘土壁の集会所。交易路沿いにあるから旅人には慣れている。村人が警戒の目で見ているが、敵意はない。
水と食料を交渉した。
武力はないが、交易路の知識と人脈がある。村人に「情報」を売った。ウガルの最新状況——嵐の沈静化、港の復旧、交易の見通し。商人にとって、情報は通貨だ。村人は北の山への道案内の情報をくれた。
「山道は二つある。西回りは緩やかだが遠い。東回りは急だが近い」
「東回りで」
「危険だぞ。獣が出る」
「急ぎなので」
村を出た。水袋が満たされ、干し肉と干し果物が荷袋に加わった。対価は情報だけ。銅貨は一枚も使わなかった。
武力ゼロでも生きていける。交渉と情報で道を拓ける。
だが——夜が問題だった。
交易路を外れ、山道の手前で野営した。焚き火を起こした。火起こしは得意ではないが、冥界への旅で覚えた。アナトに教わったのだ。「人間は火がないと死ぬのか」と呆れた声で聞かれ、「死にませんが凍えます」と答えた。彼女は黙って火打ち石の使い方を見せてくれた。神が火の起こし方を教えるのは、たぶん歴史上初めてだっただろう。
帳面を開いた。明日の行程を計算する。
東回りの山道。標高差と距離から、二日で峠を越えられる。源流の交差点まであと四日。予定通りだ。効率は良い。一人の方が判断が速く、荷物が軽い。
「一人のほうが効率がいい」と帳面に書こうとして——手が止まった。
焚き火の向こう側が暗い。
隣に誰もいない。
冥界への旅では、焚き火の向こう側にアナトがいた。剣を磨いていた。時折星を見上げていた。「邪魔だ」と言いながら、いつも起きていてくれた。アシュタルが眠った後も、朝まで見張りをしていた。「神は寝ないのか」と聞いたら、「必要ない」と素っ気なく返された。
あの時は当たり前だと思っていた。
焚き火の向こう側に誰かがいること。背中を預けて眠れること。朝起きた時に誰かの気配があること。全部——当たり前だと思っていた。
当たり前ではなかったのだ。
焚き火が爆ぜた。火の粉が舞い上がり、暗闇に散った。夜空に星が見えた。あの星を——アナトも見ていたのだろうか。今夜、どこにいるにしても。
「一人のほうが効率がいい」
帳面に書こうとした文字を消した。書けなかった。嘘になるから。
効率は良い。それは事実だ。だが——効率が良いことと、良い旅であることは違う。
隣に誰もいない。焚き火の向こう側が暗い。
「一人のほうが効率がいい」はずなのに——眠れなかった。




