表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
248/272

天秤の傾き

 旅支度をした。


 帳面。筆記具。ペンダント。最低限の食料と水。銅貨を少し。荷物が少ない。冥界への旅の時とは比べものにならない軽装だった。


 だがあの時は——アナトがいた。


 考えるな。今は考えるな。


 シャリムの部屋の扉を叩いた。


「創造神に会いに行く」


 シャリムが絶句した。杯を持ったまま固まっている。朝の茶が湯気を立てていた。


「正気か」


「商人は正気で無茶をする」


 シャリムが笑った。呆れた笑いだったが、その奥に心配の色があった。長い付き合いだ。アシュタルの無茶は今に始まったことではないが、今回のは度が過ぎている。


「護衛をつけよう。港の警備兵に——」


「要らない」


「なぜ」


「人間の護衛では神の山に近づけない。むしろ危険を増やす。人数が多ければ目立つし、足も遅くなる。一人の方がいい」


 合理的な理由だ。本当の理由は別にある。護衛をつけても、エルの前では何の役にも立たない。創造神を前にして人間の剣が何になる。この旅で必要なのは剣ではない。言葉だ。


 シャリムが頷いた。反対しても無駄だと分かったのだろう。


「いつ戻る」


「分からない。十日以内には」


「十日か」


「十日で戻らなければ——」


「何もできることはないな」


「そうだ。何もしなくていい。待っていてくれ」


 シャリムが手を差し出した。握った。商人の握手。取引の成立。「待つ」という契約を結んだ。


 家族に挨拶した。


 ヤリムの頭を撫でた。弟は最近、味覚が少し戻ってきている。完全ではないが——パンの甘みが分かるようになったと、昨日嬉しそうに言っていた。その笑顔を守るために、冥界に行った。そしてバアルを取り戻した。だがまだ——完全には治っていない。「緩和」であって「完治」ではない。何かがまだ足りない。


「行ってきます」


 父、タグムに言った。父は渋い顔をした。嵐の経済的被害で商会の帳簿は真っ赤だ。息子が家業を手伝うべき時に、また旅に出る。父の不満は当然だった。だが——何も言わずに頷いた。


 母が「必ず帰ってきなさい」と言った。冥界への旅の前にも同じことを言った。同じ言葉。同じ声。だが今度は——アナトがいない。


 門を出る時、振り返らなかった。振り返れば足が止まる。


 城門を出た。


 一人。


 風が強かった。バアルの嵐の残り香が風に混じっている。塩と砂と、微かな電気の匂い。嵐神の力が空気に溶けている。


 北を向いた。


 山が見えた。ウガルから北に続く山脈。商人なら交易路として知っている道だ。だが交易路を越えた先——源流の交差点は、商人の地図には載っていない。


 あの向こうに、世界を作った神がいる。


 一人で行く。


 商人は一人でも取引ができる。


 ——そのはずだ。


 歩き始めた。一歩目は軽かった。二歩目も軽かった。三歩目から——重くなった。足が重いのではない。背中が軽いのだ。


 背中を守る者がいない。


 冥界への旅では、常にアナトが後ろにいた。剣を持ち、目を光らせ、「前に出るな」と叱る声が背中にあった。あの声がないと、背中が寒い。


 足が震えている。


 恐怖だろうか。それとも——隣に誰もいないことのせいだろうか。


 どちらでもいい。震えていても、歩ける。


 北に向かって歩いた。一人で。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ