天秤の傾き
旅支度をした。
帳面。筆記具。ペンダント。最低限の食料と水。銅貨を少し。荷物が少ない。冥界への旅の時とは比べものにならない軽装だった。
だがあの時は——アナトがいた。
考えるな。今は考えるな。
シャリムの部屋の扉を叩いた。
「創造神に会いに行く」
シャリムが絶句した。杯を持ったまま固まっている。朝の茶が湯気を立てていた。
「正気か」
「商人は正気で無茶をする」
シャリムが笑った。呆れた笑いだったが、その奥に心配の色があった。長い付き合いだ。アシュタルの無茶は今に始まったことではないが、今回のは度が過ぎている。
「護衛をつけよう。港の警備兵に——」
「要らない」
「なぜ」
「人間の護衛では神の山に近づけない。むしろ危険を増やす。人数が多ければ目立つし、足も遅くなる。一人の方がいい」
合理的な理由だ。本当の理由は別にある。護衛をつけても、エルの前では何の役にも立たない。創造神を前にして人間の剣が何になる。この旅で必要なのは剣ではない。言葉だ。
シャリムが頷いた。反対しても無駄だと分かったのだろう。
「いつ戻る」
「分からない。十日以内には」
「十日か」
「十日で戻らなければ——」
「何もできることはないな」
「そうだ。何もしなくていい。待っていてくれ」
シャリムが手を差し出した。握った。商人の握手。取引の成立。「待つ」という契約を結んだ。
家族に挨拶した。
ヤリムの頭を撫でた。弟は最近、味覚が少し戻ってきている。完全ではないが——パンの甘みが分かるようになったと、昨日嬉しそうに言っていた。その笑顔を守るために、冥界に行った。そしてバアルを取り戻した。だがまだ——完全には治っていない。「緩和」であって「完治」ではない。何かがまだ足りない。
「行ってきます」
父、タグムに言った。父は渋い顔をした。嵐の経済的被害で商会の帳簿は真っ赤だ。息子が家業を手伝うべき時に、また旅に出る。父の不満は当然だった。だが——何も言わずに頷いた。
母が「必ず帰ってきなさい」と言った。冥界への旅の前にも同じことを言った。同じ言葉。同じ声。だが今度は——アナトがいない。
門を出る時、振り返らなかった。振り返れば足が止まる。
城門を出た。
一人。
風が強かった。バアルの嵐の残り香が風に混じっている。塩と砂と、微かな電気の匂い。嵐神の力が空気に溶けている。
北を向いた。
山が見えた。ウガルから北に続く山脈。商人なら交易路として知っている道だ。だが交易路を越えた先——源流の交差点は、商人の地図には載っていない。
あの向こうに、世界を作った神がいる。
一人で行く。
商人は一人でも取引ができる。
——そのはずだ。
歩き始めた。一歩目は軽かった。二歩目も軽かった。三歩目から——重くなった。足が重いのではない。背中が軽いのだ。
背中を守る者がいない。
冥界への旅では、常にアナトが後ろにいた。剣を持ち、目を光らせ、「前に出るな」と叱る声が背中にあった。あの声がないと、背中が寒い。
足が震えている。
恐怖だろうか。それとも——隣に誰もいないことのせいだろうか。
どちらでもいい。震えていても、歩ける。
北に向かって歩いた。一人で。




