死者の囁き
ウガル郊外の泉を訪ねた。夜明け前だった。
アシェラとの接触場所だ。泉の水面に月が映っている。星が水に溶けて、底が見えないほど暗い。だが水は澄んでいた。月光を反射する表面の下に、深い闇がある。
アシェラが既にいた。
待っていたように、泉のほとりに座っていた。白い衣が月光に青く染まっている。微笑みの中に疲労が見えた。この女神もまた——何かを背負っている。
「また来たか、商人」
「また来ました」
「今度は何が欲しい」
単刀直入に言った。
「エルの居場所を教えてほしい」
アシェラが黙った。
長い沈黙だった。泉の水面に風が起きず、月の映りが微動だにしない。神が沈黙する時、周囲の空気ごと止まる。
「エルに会うつもりか」
「はい」
「理由は」
「商談です」
アシェラが笑った。
声を出して笑ったのは初めて見た。これまでは微笑みか、含みのある笑みだけだった。だが今の笑いには——驚きと、感心と、少しの悲しみが混じっていた。
「エルと商談。お前は本当に——面白い人間だ」
面白い。アナトも同じことを言った。神々はアシュタルを「面白い」と評する。人間にとっては命がけの決断も、神にとっては「面白い」だ。命の重さが違う存在に「面白い」と言われるのは——嬉しいのか、悲しいのか、よく分からなかった。
「居場所を教える対価は」
アシェラが微笑みを戻した。だが目は笑っていなかった。
「金銭は要らない」
「では何を」
「一つ、伝言を頼みたい」
伝言。
意外だった。アシェラほどの女神が、伝言を頼む相手がいないとは思えない。だが——エルに限っては、事情が違うのかもしれない。隠居して居場所を隠した創造神に、伝言を届けられる者は限られている。
「エルに会えたら、こう聞いてくれ」
アシェラの声が微かに震えた。
母なる海の女神の声が——震えている。
「『あなたはまだ、海を愛していますか』」
言葉が泉の水面に落ちたような気がした。波紋が広がり、月の映りが揺れた。だが実際に水面は動いていない。動いたのは空気の方だ。アシェラの感情が、空気を震わせた。
この女神にも——聞けない問いがあるのだ。
創造神エルと海の女神アシェラの間に、人間には計り知れない歴史がある。何千年もの時間。共に世界を作り、共に神々を育て、そして——エルは隠居し、アシェラは残った。その間に何があったのか。何が壊れたのか。あるいは——何がまだ壊れずに残っているのか。
アシュタルには分からない。だが——伝言は預かれる。
「聞きます」
頷いた。
「必ず」
アシェラの目に一瞬だけ光が揺れた。涙ではない。もっと深いもの。千年分の感情が、一瞬だけ水面に浮かび上がるような光。
微笑みが戻った。今度は——少しだけ穏やかだった。
「二つの河の源流が交わる場所。北の山を越えた先に」
エルの住処の情報を告げた。声は再び安定していた。だが——先ほどの震えを聞いた耳には、安定した声の下に波があるのが分かった。
「二つの河の源流」
帳面に書き留めた。北の山。源流の交差点。
「人間の足では七日はかかるだろう」
「一人で行きます」
「分かっている」
アシェラが立ち上がった。白い衣が風に揺れた——いや、風はない。彼女自身の気配が衣を揺らしていた。
「一つだけ言っておく」
去り際に振り返った。
「エルは穏やかな老人に見えるだろう。だが——油断するな。あの人は微笑みながら世界を作った。微笑みながら世界を壊すこともできる」
その言葉を胸に刻んだ。
泉のほとりに一人残された。月が沈み始めていた。東の空が微かに白んでいる。夜明けが近い。
二つの河の源流。北の山の向こう。エルの住処。
一人で行かなければならない。
だが——伝言を預かった。
アシェラの問いを、エルに届ける。「あなたはまだ、海を愛していますか」。
その問いの重さは、帳面には書けなかった。




