アナトの横顔
翌朝、帳面を広げた。
全ての状況を一枚の紙に書き出す。交渉相手と彼らの状態。商人の棚卸しだ。在庫を確認し、状況を整理し、次の一手を考える。商売の基本中の基本。
バアル:回復途上、行動不能。嵐の制御は戻りつつあるが、まだ万全ではない。戦力としても交渉相手としても、当分は動かせない。
アナト:消失。行き先不明。帰還時期不明。禁忌を恐れて距離を取った。追跡不能。
モト:攻勢中。使者による情報戦。脅迫。民心への浸透工作。止まる気配なし。
エル:沈黙。物語の冒頭からずっと沈黙している。神殿は閉鎖され、誰も居場所を知らない——少なくとも、そう言われている。
ヤム:中立。情報は提供するが、行動はしない。信用の上限がある。
アシェラ:間接的支援のみ。情報はくれるが、戦線には立たない。
一人ずつ検討した。
バアル——待つしかない。時間が必要だ。だが時間はモトが食い潰す。
アナト——消えた。探す手段がない。仮に見つけても、禁忌の問題は消えない。
モト——敵。だが「正論」で攻めてくる敵は、嘘つきよりも厄介だ。
ヤム——中立を名乗っているが、中立の神などいるのか。何かの思惑があるはずだ。だが今のところ利害は一致している。
アシェラ——情報はくれる。だが行動はしない。彼女には彼女の立場がある。
全てのパイプが詰まっていた。
商人にとって「交渉相手の不在」が最悪の状況だ。商品がなくても商人は動ける。仕入れればいい。金がなくても信用で回せる。手形を切ればいい。だが取引相手がいなければ——何もできない。
商人は一人では何もできない。
それが強みでもあり、弱みでもある。誰かと繋がることで力を生む。繋がる相手がいなければ——ゼロだ。
帳面に書いた。
全ての交渉相手がテーブルから立ち去った。
筆を止めた。
本当にそうか?
全員か?
帳面の左上に書いた名前を見た。エル。横に「沈黙」と書いてある。
エルは沈黙している。だが——「テーブルから立ち去った」のではない。最初からテーブルについていない。いや——アシュタルが声をかけていないのだ。
声をかけなければ、テーブルにつくかどうかも分からない。
エル。創造神。世界を作った神。全ての神の父。隠居を名目に表舞台から消えた最高権威。誰も居場所を知らないと言われている——だが、アシェラなら知っているかもしれない。
まだ一人だけ、会っていない相手がいる。
帳面の隅にエルの名前を丸で囲んだ。
商人が在庫を棚卸しして見つけるものがある。「まだ使っていない手札」だ。忘れていた在庫。見落としていた商品。帳簿の奥に埋もれていた債権。
エルは——まだ使っていない手札だ。
リスクは計り知れない。創造神に商談を持ちかける人間など、前代未聞だろう。だが——前代未聞は商機だ。誰もやっていないということは、競合がいないということだ。
帳面に書いた。
最後のテーブル。エル。
取引相手がいない。商人は一人では何もできない。
——だが、まだ一人だけ、会っていない相手がいる。
エル。創造神。世界を作った老人。
そこに——行く。




