商人の値踏み
アナトを探した。
夜のウガルを歩き回った。バアル神殿。港。広場。城門。月明かりが道を照らしているが、アナトの気配はどこにもなかった。
バアル神殿で聞いた。
「女神様は夕方に出て行かれました」
神官が言った。初老の男で、バアルの神殿に何十年も仕えてきた忠実な信者だ。
「行き先は」
「告げずに。足早にお出になりました」
バアルの元にもいないのだ。
アナトがバアルの側を離れるのは——制御が安定してきたからだろう。だがバアルの元にもいないということは、「バアルの世話」が理由ではなく、完全な単独行動だ。
追跡する手段がなかった。人間に、女神を追える足はない。アナトが本気で走れば、人間の何倍もの速さだ。行き先も告げていない。手がかりがない。
帰宅した。
帳面を開いたが、何も書けなかった。
いや——書こうとはした。商人としての習慣が体に染みついている。情報を整理し、記録し、分析する。それが仕事だ。
行き先不明。
帰還時期不明。
理由:禁忌の回避。
三行。それだけだ。書くべきことはそれだけのはずだ。
だが筆が進まなかった。
帳面の文字が滲んだ。
滲む? 何が——
目が潤んでいた。
ばかな。これは商売上の不便であって——いや、違う。もうその嘘は自分にも通じなかった。「不便」では片づけられない。「リソース不足」でも「戦略的空白」でもない。
アナトがいない。
その事実が、帳面では処理できない重さを持っていた。
帳面を閉じた。
「女神に逃げられた商人」
声に出して言ってみた。滑稽だ。笑い話だ。酒場で語れば商人仲間が腹を抱えるだろう。「お前、取引相手に逃げられたのか? 商人失格だな」と。
笑えるはずだ。
笑えない。
本当に、笑えない。
手の甲を見た。光の筋はもうない。触れた痕跡も、温もりの物理的な証拠も、何もない。だが記憶は消えていない。あの温もり。痛みではなかった温もり。禁忌の力が流れた瞬間に感じた、柔らかくて穏やかな熱。
アナトはあれを恐れていた。
あの温もりの先に——死がある。力が流れ続ければ、人間の体が耐えられなくなり、壊れる。アナトにはそれが見えている。だからアシュタルの手の甲に光が走った瞬間、蒼白になった。温もりの先に死が見えたから。
だがアシュタルには——温もりしか感じなかった。
窓の外を見た。月明かりだけ。隣に誰もいない夜は、冥界への旅路以来だった。あの時は——焚き火の向こう側にアナトがいた。剣を磨いていた。星を見ていた。「まだ起きているのか」と低い声で言った。
あの時は当たり前だと思っていた。
今、隣に誰もいない。
月明かりが部屋に差し込んでいる。帳面を照らしている。筆の跡が乾いている。三行の記録。行き先不明。帰還時期不明。理由:禁忌の回避。
それだけでは足りない。
帳面に追記した。
笑えない。本当に、笑えない。
これも帳面に書くべきことではなかった。商取引とは何の関係もない。だが書いた。書かずにいられなかった。帳面が商人の記録から、別の何かに変わりつつある。
窓の外は月明かりだけ。隣に誰もいない夜は、冥界への旅路以来だ。だが今回は——もっと暗い。
眠れなかった。




