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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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帰還者への怨嗟

 沈黙が続いていた。


 アナトが去ったはずの玄関口に、まだ立っていた。夕陽は沈みかけ、二人の——いや、一人の影だけが長く伸びていた。振り返って家に入ろうとした時、気配を感じた。


 アナトが戻っていた。


 十歩ほど離れた場所に立っている。背を向けたまま、足が止まっている。去ったはずなのに——去りきれなかったのだ。


 アシュタルは一歩、近づいた。


「禁忌のことなら、知っている」


 言った。言ってしまった。


 アナトの肩が跳ねた。背中越しに、体が硬直するのが分かった。


「——誰から」


 声が低かった。振り返らない。


「ヤムに聞いた」


 アナトが振り返った。


 顔が——めまぐるしく変わった。驚き。怒り。恐怖。そして絶望。それらが一瞬で入れ替わり、最後に残ったのは——恐怖だった。純粋な、剥き出しの恐怖。


 戦争の女神が恐怖している。


 千年の戦場で一度も退かなかった女神が——恐怖している。


「近づくな!」


 声が割れた。


 高圧的な命令口調ではなかった。悲鳴に近かった。戦争の女神の声が——こんなに脆く聞こえたのは初めてだった。


「お前に触れるだけで——」


 その瞬間。


 アナトの手がアシュタルの手の甲に触れた。


 無意識の動きだった。「近づくな」と叫びながら、彼女自身が一歩前に出ていた。矛盾だ。離れろと言いながら、近づいている。言葉と体が別のことをしている。嘘が下手な女神は——体でも嘘がつけなかった。


 光が走った。


 アシュタルの手の甲に、淡い金色の光の筋が浮かんだ。一瞬のことだった。触れた指先から波紋のように広がり、手の甲を走り、手首まで伸びかけて——消えた。


 温かかった。


 痛みではなかった。火傷のような熱さでも、切り傷のような鋭さでもない。温もりだ。柔らかく、穏やかな温もりが、触れた場所から広がった。


 アナトが蒼白になった。


 自分の手を見つめている。触れてしまった手を。まるで凶器を握った手を見るような目で。


「見たか」


 声が震えていた。今度は怒りではない。恐怖だ。


「これが——これが禁忌だ」


 後ずさった。一歩、二歩。アシュタルから離れていく。


「私がお前に近づくだけで力が流れる。お前を——殺す」


 殺す。


 その言葉がアナトの口から出た時、彼女の顔は——戦場で見たどの表情よりも痛ましかった。千の敵を前にしても揺るがなかった女神が——一人の人間を殺してしまうことを、こんなに恐れている。


 アシュタルは手の甲を見た。


 光はもう消えていた。金色の筋の跡もない。まるで何もなかったかのように、手の甲はいつも通りだった。


 だが——温かかった。


 力が流れた。禁忌の証拠。それは事実だ。だが——痛みではなかったのだ。温もりだった。


 これが「禁忌」なら——なぜ温かい?


 顔を上げた時、アナトはもういなかった。


 駆け去っていた。神の脚力で。人間に追えるはずもない速さで。


 玄関口に一人残された。夕陽は完全に沈み、空が紫に染まっていた。手の甲を見つめた。光の筋はない。だが触れた場所に——まだ温もりが残っている気がした。


 禁忌。


 神が人間に触れれば力が流れ、人間は死ぬ。


 だが——温かかった。


 痛みではなく温もり。それは何を意味するのか。禁忌が「破壊」なら、なぜ最初に感じたのが「温もり」なのか。


 答えは分からなかった。だが——一つだけ分かったことがある。


 アナトは怖がっていた。アシュタルを殺してしまうことを。あの恐怖は——本物だった。嘘が下手な女神の、唯一の本音。


 あの恐怖は——大切な人間を失いたくないという恐怖だ。


 帳面を開いた。震える手で一行だけ書いた。


 温かかった。


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