嵐神の熱
「嘘が下手だ」
口が先に動いた。
アナトの背中が止まった。夕陽の中で、赤い髪が揺れた。一歩目を踏み出したまま、二歩目が出ない。
「初めて会った時からそうだった」
声は平坦だった。自分でも驚くほど落ち着いていた。膝は震えているが、声だけは。商人の技術に感謝する瞬間だ。
初めて会った時のことを思い出した。アナトはアシュタルに「契約」を持ちかけた。バアルを取り戻すための道具として、アシュタルを使うと。条件をつけ、対価を示し、期限を切った。完璧な契約の形を取っていた。だがその時も——目が泳いでいた。声は威圧的なのに、視線が一瞬だけ横に逸れた。あの時は気づかなかった。いや、気づいていたが、気にしなかった。神と初めて取引する興奮の方が大きかったから。
だが今は——分かる。
あの時も、アナトは何かを隠していた。
そして今も。
声は平坦で、言葉は合理的で、理由は筋が通っている。だが手が震え、目が逸れ、呼吸が微かに乱れている。商人は見逃さない。取引相手の嘘を見抜けない商人は、二流以下だ。
アナトが振り返った。
怒りの表情だった。眉が上がり、金色の瞳が燃えている。だがその奥に——動揺があった。怒りの仮面の下で、何かがぐらついている。
「人間ごときが女神の嘘を見破れると?」
声は高圧的だった。いつものアナトの声だ。だが——いつものアナトなら、この程度の挑発で振り返りはしない。振り返った時点で、効いているのだ。
「見破れます。あなたの嘘は下手だから」
引かなかった。膝は震えていたが、声は引かなかった。
アナトが言葉に詰まった。
初めて見た。
戦争の女神が——言葉に詰まった。何千年も戦い続け、神々の間でも恐れられた戦の女神が、一人の商人の前で、次の言葉を失った。
沈黙が落ちた。
夕陽が沈みかけていた。二人の影が長く伸び、地面で重なりかけている。風が止んでいた。港から聞こえるはずの波の音も、遠くなっていた。
アナトの目に——一瞬だけ——何かが揺れた。
怒りでも侮蔑でもない。もっと柔らかくて、もっと脆いもの。名前をつけるなら——たぶん、それは。
だがすぐに消えた。戦争の女神の仮面が戻る。鉄のように硬い表情が、柔らかさを覆い隠した。
「知ったような口を——」
声が震えていた。
怒りで震えているのか。それとも——別の理由で。
アシュタルは気づいた。この人は、泣き方を知らないのだ。
何千年も戦い続けてきた。最強であるがゆえに対等な存在がいなかった。弱さを見せることを極端に嫌い、感情を殺して戦場に立ち続けた。泣くという行為は、弱さの発露だ。戦争の女神にとって、それは——あってはならないことだった。
だから震える。泣けないから、声が震える。体が震える。拳が白くなる。感情の出口がないから、全身で抑え込もうとする。
口を開きかけた。
だが——何を言う?
「嘘だと言いたいなら証拠を見せろ」と言えるか。証拠なら目の前にある。震える声、白い拳、揺れた瞳。だがそれを突きつけることが正しいのか。
「禁忌のことは知っている」と言えるか。言えるだろう。だがそれは——ヤムが明日に回した「続き」を、ここで強引に開くことになる。
今はまだ、早い。
アナトが一歩下がった。仮面が完全に戻った。金色の瞳から柔らかさが消え、戦争の女神の冷たい目が残った。
「次に会うのは、全てが終わった後だ」
低い声で言い残して、アナトは去った。
夕闇の中に赤い髪が溶けていく。足音が遠ざかる。神の足音は軽い。だが今日の足音は——ほんの少しだけ、重かった。
一人残された。
玄関口に立ったまま、沈みゆく夕陽を見つめた。
アナトが初めて、言葉に詰まった。戦争の女神が、一人の商人の前で。
だがまだ壁は崩れていない。
これは始まりだ。壊れたのではなく——ひびが入っただけ。
帳面を取り出し、一行だけ書いた。
嘘が下手だ。初めて会った時から。
その文字を見つめて——帳面を閉じた。




