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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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砕ける港

 予期せぬ来訪だった。


 夕方、扉を叩く音がした。シャリムかと思って開けると——アナトが立っていた。


 夕陽がアナトの横顔を照らしていた。赤い髪が夕光に染まり、普段よりも深い紅色に見えた。だが目は冷たかった。金色の瞳に、感情が映っていない。戦争の女神の目だ。千年の戦場を生き延びた者の、感情を殺した目。


 心臓が跳ねた。


 昨日、ヤムに禁忌のことを聞いた。全てが繋がった。アナトの態度の理由も、暗い表情の意味も。だが——それを知っている今、この女神を前にして、何を言えばいい?


「バアルの回復が進んでいる」


 アナトが口を開いた。玄関の敷居をまたがずに、外に立ったまま。入ってこない。距離を保っている。


「もう私が付きっきりでいる必要もなくなる」


「それは良いことだ」


 返した。嘘ではない。バアルの回復は良いことだ。だが——良いことのはずなのに、アナトの声に温度がない。


「だからもう用はない」


 その言葉が来ると分かっていた。


「お前との契約も——そろそろ整理すべきだ」


 整理。商人が使う言葉を、アナトが使った。皮肉だ。初めて会った時、アシュタルが「契約」と呼んだ関係を、今度はアナトが「整理」しようとしている。


 アシュタルは黙って聞いた。


 アナトの声は平坦だった。言葉は合理的で、理由も筋が通っていた。バアルの回復。モトとの戦い。商人には商人の仕事がある。神の争いに人間がこれ以上巻き込まれる必要はない。全て、正しい。


 だが。


 アシュタルの目は、アナトの手を見ていた。


 拳を握りしめている。白くなるほど。指の関節が浮き上がり、爪が掌に食い込んでいるのが見えた。


 声は平坦なのに、手が——


 商人は手を見る。取引相手の手を見る。声は作れるが、手は作れない。嘘をつく時、人は声を制御できても、手を制御できないことが多い。緊張する指先、握りしめる拳、無意識に触れる耳。体の末端が本心を語る。


 アナトの声は完璧に平坦だった。


 だが手が——裏切っていた。


「もう用はない」


 アナトがもう一度言った。念を押すように。自分に言い聞かせるように。


 アシュタルは答えなかった。


 ただ見ていた。アナトの目を。金色の瞳が一瞬だけ揺れ——すぐに戻った。鉄の仮面。戦争の女神の仮面。


 この女神は嘘をついている。


 初めて会った時から——彼女は嘘が下手だった。条件をつけながら本心を隠し、「合理的な判断だ」と言いながら手が震えていた。声は作れても目が泳ぎ、呼吸が乱れ、拳が白くなる。


 嘘をついている。


 だが——なぜ嘘をつかなければならないのかを、もう知っている。


 禁忌だから。近づけばアシュタルが死ぬから。守るために、離れようとしている。


 アナトが背を向けた。


 一歩、踏み出した。夕陽の中に歩き出そうとしている。


 声をかけるべきだ。


 だが——何と言う?


 「行くな」と言えば、アナトを苦しめる。近くにいることが禁忌なら、引き留めることは彼女を恐怖の中に閉じ込めることだ。


 「分かった」と言えば、嘘になる。分かっていない。何も分かっていない。アナトがいない日々を「整理」と呼んで受け入れられるほど——もう、そこまで割り切れなくなっている。


 言葉が見つからなかった。


 商人は言葉を扱う生き物だ。言葉で戦い、言葉で繋ぎ、言葉で生きてきた。だがこの瞬間——適切な言葉がなかった。


 アナトの背中が遠ざかっていく。夕陽が彼女の影を長く引いていた。


 まだ——言葉が見つからない。


 彼女は嘘をついている。だが、なぜ嘘をつかなければならないのかを、もう知っている。


 知っているからこそ——何も言えなかった。


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