嵐の先へ
波止場の朝靄の中、ヤムの船を訪ねた。
夜を眠れずに過ごした。禁忌という言葉が頭の中で転がり続けた。帳面に何度も書いては消し、書いては消した。商人は情報を扱う生き物だが、情報が足りなければ仮説も立てられない。だから——聞きに来た。
ヤムの船だけが静かに浮かんでいた。他の船は朝の出港準備でざわめいているのに、この船だけが波一つ立てず、靄の中に沈んでいた。海の神の船は海に溶けるように存在していた。
甲板に上がった。ヤムが船尾で朝日を見ていた。
「禁忌とは何だ」
挨拶を省いた。商人としては失礼だが、眠れなかった人間に礼儀を求めるのは酷だろう。
「具体的に何が起きる」
ヤムが振り返った。アシュタルの顔を観察するような目だった。目の下の隈。一晩中考え続けた疲労。それでいて——目の奥は鋭い。逃げていない。
「分かったのか。自分のことだと」
アシュタルは答えなかった。
だがここに来た事実が答えだった。他人事だと思うなら、眠れない夜を過ごして朝一番に海の神を訪ねたりはしない。
ヤムが頷いた。
「神と人間の間に感情の絆が生まれると、神の力が人間に流れ始める」
朝日が波間に散っていた。光が砕ける。ヤムの声は穏やかだったが、内容は穏やかではなかった。
「流れる?」
「感情の絆が導管になる。神の力は本来、神の体の中に留まるものだ。だが絆が——人間との間に——できてしまうと、そこに隙間ができる。力が漏れ始める」
導管。商人の知識に置き換えた。水路だ。水路ができれば水が流れる。力が「水」なら、感情の絆が「水路」だ。
「漏れると——何が起きる」
ヤムが三本の指を立てた。
「一つ。人間の体が神力に耐えられず死ぬ」
一本目の指が立つ。
「二つ。神は力を失い弱体化する」
二本目。
「三つ。神の力のバランスが崩れ、世界の均衡が壊れる」
三本目。
朝靄が薄くなっていった。朝日が強くなり、波止場に光が差し込む。だがアシュタルの体は冷えていた。朝の冷気のせいではなかった。
「単なる恋愛のタブーではない」
ヤムが言った。
「世界の構造に関わる物理的現象だ。神が人間に——本気で感情を持てば、力が漏れ、人間は死に、神は弱り、均衡が崩れる。禁忌と呼ばれるのは道徳的な理由ではない。結果が壊滅的だからだ」
アシュタルの顔から血の気が引いていた。自分でも分かった。指先が冷たい。
全てが繋がった。
アナトの暗い表情。距離を取る態度。「もう用はない」という嘘。バアルが回復するほど苦しそうな顔——バアルが良くなれば、アシュタルの近くに戻る口実がなくなる。近くにいれば力が漏れる。力が漏れればアシュタルが死ぬ。
彼女は——恐怖していたのだ。
アシュタルの近くにいることで、アシュタルを殺してしまうことを。
だから離れた。距離を取った。冷たい態度で遠ざけようとした。「もう用はない」と嘘をついた。全ては——アシュタルを守るためだった。
守るために、離れた。
近づきたいのに、離れなければならない。
あの暗い目の意味が——今、分かった。
「自分のことだと」
ヤムがもう一度言った。
アシュタルは頷いた。
「僕が——原因なのか」
声が掠れた。
「アナトが禁忌に苦しんでいるのは——僕がいるからか」
ヤムは答えなかった。答える必要がなかった。
波止場の朝日が眩しかった。だが目は乾いていた。泣いてはいなかった。泣く余裕もなかった。
アナトの苦しみの正体を理解した。
そして自分がその原因であることも。
だが——だからどうする。
距離を取るのか。アナトの嘘に乗って、二度と会わないのか。それが「正解」なのか。
分からない。
分からないが——一つだけ確かなことがある。
ここから逃げる気はない。




